武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
そうま | | あきたね |
通常版 |
磐城 |
1521 |
(1508-1549)相馬家14代当主。盛胤の嫡男。小高城主。伊達家の内紛(天文の大乱)では舅の伊達稙宗を助けて奮戦し、晴宗に圧迫された稙宗を居城に引き取った。 |
相馬 | 孫次郎 | 顕胤 |
武将 | 騎馬 |
[登用] [突撃] |
41 | 66 | 46 |
52 | 70 |
7 |
そうま | | もりたね |
通常版 |
磐城 |
1544 |
(1529-1601)相馬家15代当主。顕胤の嫡男。小高城主。天文の大乱後は伊達家と敵対し、各地で死闘を展開する。一方、近隣の田村清顕とは和睦し、所領の基盤を固めた。 |
相馬 | 孫次郎 | 盛胤 |
武将 | 騎馬 |
[開墾] [奉仕] [激励] [突撃] |
54 | 74 | 55 |
77 | 80 |
7 |
そうま | | よしたね |
通常版 |
磐城 |
1563 |
(1548-1635)相馬家16代当主。盛胤の嫡男。伊達家と各地で抗争を展開した。関ヶ原合戦で西軍に属していったん改易されるが、伊達政宗の取りなしで本領を安堵された。 |
相馬 | 孫次郎 | 義胤 |
武将 | 騎馬 |
[改修] [捕縛] [突撃] |
48 | 68 | 44 |
36 | 85 |
7 |
そうま | | たかたね |
通常版 |
磐城 |
1566 |
(1551-1590)盛胤の次男。中村城代を務めた。伊達家との戦いで戦死した。勇猛な武将ではあったが「小利を貪ってついには大利を失うであろう」と言われていたという。 |
相馬 | | 隆胤 |
武将 | 騎馬 |
[突撃] |
52 | 37 | 45 |
48 | 55 |
8 |
くさの | | なおきよ |
通常版 |
磐城 |
1529 |
(1514-1563)相馬家臣。顕胤に仕え、中村城代を務めていた。中村城は801年に坂上田村麻呂が菅原実敬に命じて築かせたという。その後は中村家が代々居城としていた。 |
草野 | | 直清 |
武将 | 弓 |
[連射] [混乱] |
42 | 13 | 25 |
48 | 60 |
34 |
こばた | | つぐきよ |
通常版 |
磐城 |
1549 |
(1534-1618)相馬家臣。大膳、因幡と称した。盛胤・義胤・利胤と相馬家三代に仕えた老臣。各地の合戦に従軍し、たびたび軍功を立てるなど活躍した。 |
木幡 | | 継清 |
武将 | 槍 |
[訓練] [槍衾] |
48 | 32 | 38 |
21 | 85 |
8 |
こばた | | たかきよ |
通常版 |
磐城 |
1552 |
(1537-1642)相馬家臣。駿河と称した。相馬家五代に仕えた重臣。検地代官や利胤の傅役も務めた。「相馬旧記」を編纂する際には、昔の出来事を詳しく語ったという。 |
木幡 | | 高清 |
武将 | 荷駄 |
[検地] [槍衾] [説得] |
43 | 28 | 40 |
35 | 65 |
8 |
さとう | | よしのぶ |
通常版 |
磐城 |
1526 |
(1511-1565)相馬家臣。佐藤家はもと岩城家臣であったが、好信の代に相馬家に属す。軍奉行を務めたが、郡左馬助の讒言により領地を没収され、失意のうちに病死した。 |
佐藤 | | 好信 |
武将 | 弓 |
[開墾] [収拾] |
34 | 40 | 36 |
30 | 60 |
38 |
さとう | | ためのぶ |
通常版 |
磐城 |
1557 |
(1542-1591)相馬家臣。好信の子。小斎城主。伊達家との合戦の際、援軍に来た郡左馬助を討ち、父の敵をとる。直後に伊達家に属した。のちに佐沼の戦いで戦死した。 |
佐藤 | 左衛門 | 為信 |
武将 | 騎馬 |
[外交] [逃亡] |
38 | 45 | 52 |
55 | 55 |
38 |
みずたに | | たねしげ |
通常版 |
磐城 |
1553 |
(1538-1606)相馬家臣。父・胤氏が伊達家との戦いで戦死し、家督を継ぐ。関ヶ原合戦の際、伊達政宗が相馬領を通れるよう手配し、このことが主家を改易処分から救った。 |
水谷 | | 胤重 |
武将 | 槍 |
[回復] [攻城] |
20 | 23 | 37 |
44 | 75 |
7 |
いわき | | しげたか |
通常版 |
磐城 |
1520 |
(1505-1569)奥州大館城主。伊達家の内紛(天文の大乱)の際には、娘が晴宗の妻であった関係から、晴宗方に属した。佐竹義篤ともたびたび争った。和歌をよくした。 |
岩城 | 二郎太郎 | 重隆 |
武将 | 騎馬 |
[開墾] [外交] [茶湯] |
62 | 67 | 61 |
58 | 60 |
40 |
おおつか | | まさなり |
通常版 |
磐城 |
1534 |
(1519-1558)佐竹家臣。竜子山城主。大塚家はもと岩城家臣。政成の時に、佐竹一家の待遇を受けて佐竹家に属し、のちに佐竹・岩城両家の間に入って和睦を成立させた。 |
大塚 | | 政成 |
武将 | 荷駄 |
[外交] |
60 | 39 | 57 |
73 | 65 |
44 |
こまきね | | としまさ |
通常版 |
磐城 |
1569 |
(1554-1635)豊臣・徳川家臣。奥州岩城の地侍をよく掌握していたため、3千石を与えられ、代官となる。関ヶ原合戦後は徳川家に仕え、平藩主となった鳥居忠政に仕えた。 |
駒木根 | | 利政 |
武将 | 鉄砲 |
[登用] [雨撃] |
61 | 40 | 47 |
61 | 50 |
46 |
しらと | | たかみち |
通常版 |
磐城 |
1566 |
(1551-1600)岩城家臣。白土家は岩城家一族。志賀甘釣斎(武治)とともに、しばしば伊達家との折衝にあたった。佐竹家から貞隆を迎えるのに尽力、岩城家を存続させた。 |
白土 | | 隆通 |
武将 | 騎馬 |
[捕縛] |
56 | 35 | 40 |
59 | 75 |
46 |
たけぬき | | ひろみつ |
通常版 |
磐城 |
1523 |
(1508-1557)岩城家臣。竹貫家は奥州の豪族・石川家の一族であるが、岩城家に仕えて重臣となる。佐竹家と白河結城家間の調停を岩城家が行った際、その折衝役を務めた。 |
竹貫 | | 広光 |
武将 | 弓 |
[外交] [連射] |
40 | 25 | 36 |
56 | 65 |
46 |
しらかわ | | よしつな |
通常版 |
磐城 |
1521 |
(1506-1555)白河結城家当主。顕頼の子。白河結城家は祐広を初代とし、南北朝期は南朝方についた。永享の大乱の際には直朝が南奥州の中心人物として活躍している。 |
白河 | | 義綱 |
武将 | 槍 |
[開墾] [回復] [守戦] |
43 | 31 | 52 |
22 | 65 |
17 |
しらかわ | | はるつな |
通常版 |
磐城 |
1544 |
(1529-1573)白河結城家当主。義綱の子。内乱を鎮定して北上を続ける佐竹家と抗争し、次第に所領を奪われる。蘆名家と結んで対抗したが、間もなく失明、病死した。 |
白河 | | 晴綱 |
武将 | 弓 |
[回復] [連射] |
55 | 36 | 55 |
54 | 75 |
17 |
しらかわ | | よしあき |
通常版 |
磐城 |
1573 |
(1567-1613)白河結城家当主。晴綱の嫡男。父の死後に家督を継ぐが、後見役の小峰義親をはじめとする家臣たちによって居城を追われた。子孫は秋田藩に仕えている。 |
白河 | | 義顕 |
武将 | 騎馬 |
[逃亡] |
30 | 10 | 11 |
42 | 80 |
10 |
こみね | | よしちか |
通常版 |
磐城 |
1556 |
(1541-1626)奥州小峰城主。顕頼の子(義綱の子ともいう)。宗家の義顕を追放して白河結城家を乗っ取る。のちに佐竹義重に敗れ、義重の子・義広を養子に迎え隠居した。 |
小峰 | | 義親 |
武将 | 荷駄 |
[捕縛] [攻城] [混乱] |
40 | 22 | 43 |
83 | 35 |
19 |
かとうだ | | しげきよ |
通常版 |
磐城 |
1567 |
(1552-1601)白河結城家臣。河東田家は白河結城家の一族で、河東田郷に住んで姓としたという。伊達家との交渉に当たった。主家滅亡後は伊達家に仕え、3百石を賜った。 |
河東田 | | 重清 |
武将 | 弓 |
[激励] |
44 | 21 | 38 |
33 | 75 |
15 |