武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
はが | | やすただ |
通常版 |
相模伊豆 |
1557 |
(1542-1590)北条家臣。評定衆を務める。越相同盟締結の際に使者を務め、厩橋城代として東上野を支配するなど、内政・外交面で活躍した。主家滅亡後は伊豆に隠棲した。 |
垪和 | 又太郎 | 康忠 |
武将 | 荷駄 |
[攻城] |
44 | 15 | 48 |
25 | 70 |
90 |
たいげん | | せっさい |
通常版 |
駿河遠江 |
1511 |
(1496-1555)今川家臣。執権を務めた。小豆坂の合戦で織田軍を破り、甲相駿三国同盟を成立させるなど、主家の政治、文化、経済、軍事、外交すべてに大きく貢献した。 |
太原 | 崇孚 | 雪斎 |
旧仏教 | 弓 |
[外交] [奉仕] [連射] [説得] |
93 | 90 | 94 |
50 | 95 |
29 |
いい | | なおもり |
通常版 |
駿河遠江 |
1521 |
(1506-1560)今川家臣。井伊谷城主。斯波家臣・大河内貞綱に呼応して三岳城に籠城するが、朝比奈泰以軍の攻撃を受け落城、以後は今川家に属す。桶狭間合戦で戦死した。 |
井伊 | 次郎 | 直盛 |
武将 | 荷駄 |
[商業] [守戦] |
42 | 50 | 59 |
18 | 55 |
92 |
いい | | なおちか |
通常版 |
駿河遠江 |
1548 |
(1533-1562)今川家臣。井伊谷城主。直盛の子。父の死後、家督を継ぐが、主君・氏真に謀叛の疑いをかけられ、殺された。子・直政は今川家臣・新野親矩に保護された。 |
井伊 | | 直親 |
武将 | 弓 |
[収拾] |
40 | 38 | 24 |
43 | 65 |
92 |
いい | | なおまさ |
通常版 |
駿河遠江 |
1562 |
(1561-1602)徳川四天王の1人。直親の子。軍装を赤で統一した軍兵は「赤鬼」と恐れられ、常に先鋒を争った。関ヶ原合戦では島津軍を追撃し、島津豊久を討ち取った。 |
井伊 | 虎松 | 直政 |
武将 | 騎馬 |
[訓練] [外交] [激励] [突撃] |
74 | 81 | 65 |
75 | 85 |
90 |
いい | | なおたか |
通常版 |
駿河遠江 |
1602 |
(1590-1659)徳川家臣。直政の次男。病弱だった兄・直継に代わって家督を継ぎ、近江彦根藩主となった。大坂夏の陣に参陣し、長宗我部盛親・木村重成の両軍を撃破した。 |
井伊 | 弁之介 | 直孝 |
武将 | 鉄砲 |
[改修] [三段] [槍衾] |
64 | 66 | 52 |
40 | 75 |
91 |
まつだいら | | もとやす |
通常版 |
三河 |
1549 |
(1542-1616)江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。 |
松平 | 次郎三郎 | 元康 |
武将 | 槍 |
[貿易] [奉仕] [影] [槍衾] |
89 | 87 | 85 |
99 | 95 |
90 |
まつだいら | | のぶやす |
通常版 |
三河 |
1567 |
(1559-1579)徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。その人となりは剛勇英邁で、将来を嘱望されるが、のちに信長に武田家への内通を疑われ、父の命で自害した。 |
松平 | 三郎 | 信康 |
武将 | 槍 |
[開墾] [収拾] [槍衾] |
50 | 75 | 56 |
62 | 80 |
90 |
まつだいら | | ひでやす |
通常版 |
三河 |
1589 |
(1574-1607)徳川家康の次男。結城家の家督を継ぐ。関ヶ原合戦の際は関東に残って上杉景勝に備え、戦後、越前福井75万石を領した。激しい気性の持ち主だったという。 |
松平 | 於義丸 | 秀康 |
武将 | 騎馬 |
[回復] [激励] [突撃] |
39 | 69 | 10 |
68 | 90 |
94 |
まつだいら | | ただてる |
通常版 |
三河 |
1607 |
(1592-1683)徳川家康の六男。容貌の醜さから父に疎まれて育つ。成人後は越後高田75万石を領すが、大坂夏の陣への遅参が豊臣家への内通疑惑を招き、戦後改易された。 |
松平 | 辰千代 | 忠輝 |
武将 | 槍 |
[治水] [激励] [槍衾] |
14 | 69 | 62 |
77 | 90 |
94 |
さかい | | ただよ |
通常版 |
三河 |
1587 |
(1572-1636)徳川家臣。大坂冬・夏の陣では全軍の参謀役を務めた。のちに土井利勝・青山忠俊とともに3代将軍家光の教育係に就任し、幕府の中枢を担う。老中も務めた。 |
酒井 | 与四郎 | 忠世 |
武将 | 鉄砲 |
[登用] [外交] |
71 | 33 | 65 |
55 | 65 |
92 |
ほんだ | | ただかつ |
通常版 |
三河 |
1563 |
(1548-1610)徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と謳われた家中随一の猛将。名槍・「蜻蛉切」を手に五十七回の合戦に参陣し、かすり傷一つ負わなかったという。 |
本多 | 平八郎 | 忠勝 |
武将 | 騎馬 |
[改修] [収拾] [鉄壁] [突撃] |
56 | 83 | 63 |
70 | 95 |
90 |
ほんだ | | ただまさ |
通常版 |
三河 |
1590 |
(1575-1631)徳川家臣。忠勝の嫡男。小田原征伐、関ヶ原合戦、大坂の陣などに従軍し、播磨姫路15万石を領した。嫡男・忠刻は豊臣秀頼と死別した千姫と結婚している。 |
本多 | 平八郎 | 忠政 |
武将 | 鉄砲 |
[商業] [収拾] |
48 | 48 | 46 |
19 | 75 |
91 |
ほんだ | | ただとも |
通常版 |
三河 |
1597 |
(1582-1615)徳川家臣。忠勝の次男。関ヶ原合戦に従軍し、戦後、上総大多喜5万石を領す。大坂夏の陣では天王寺口の先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入、戦死した。 |
本多 | | 忠朝 |
武将 | 騎馬 |
[激励] [突撃] |
23 | 61 | 29 |
52 | 85 |
92 |
ほんだ | | しげつぐ |
通常版 |
三河 |
1544 |
(1529-1596)徳川家臣。岡崎奉行を務め、「鬼作左」の異名をとる。豊臣秀吉の母・大政所が徳川家の人質となった際、冷遇したため秀吉の怒りを買い、閉居処分となった。 |
本多 | 作左衛門 | 重次 |
武将 | 槍 |
[開墾] [捕縛] |
59 | 45 | 20 |
47 | 85 |
89 |
ほんだ | | まさのぶ |
通常版 |
三河 |
1553 |
(1538-1616)徳川家臣。三河一向一揆に身を投じて主家を離反、諸国を放浪したのちに帰参。行政と謀略に優れた手腕を発揮した。主君・家康には「友」と呼ばれたという。 |
本多 | 弥八郎 | 正信 |
一向宗 | 荷駄 |
[引抜] [外交] [混乱] [説得] |
83 | 18 | 86 |
65 | 55 |
90 |
さかきばら | | やすまさ |
通常版 |
三河 |
1563 |
(1548-1606)徳川四天王の1人。「無」の旗を掲げて戦場を疾駆し、各地で抜群の戦功を立てた。晩年、老中に推されるが「老臣権を争うは亡国の兆し」とこれを辞退した。 |
榊原 | 小平太 | 康政 |
武将 | 騎馬 |
[訓練] [収拾] [槍衾] |
53 | 78 | 51 |
53 | 90 |
90 |
いしかわ | | かずまさ |
通常版 |
三河 |
1548 |
(1533-1592)徳川家臣。家老を務め、西三河衆を率いて活躍した。小牧長久手合戦の後、豊臣家へ出奔。そのため、徳川家は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。 |
石川 | 与七郎 | 数正 |
武将 | 荷駄 |
[商業] [外交] [逃亡] |
74 | 48 | 70 |
58 | 50 |
96 |
いしかわ | | やすなが |
通常版 |
三河 |
1573 |
(1558-1642)徳川家臣。数正の子。父に従い主家を出奔、豊臣家に属す。父の死後、信濃松本6万石を相続。関ヶ原合戦では東軍に属す。のちに領地隠匿の罪で改易された。 |
石川 | | 康長 |
武将 | 弓 |
[逃亡] |
43 | 14 | 12 |
28 | 55 |
96 |
いしかわ | | いえなり |
通常版 |
三河 |
1549 |
(1534-1609)徳川家臣。数正の叔父。三河一向一揆平定戦で功を立てる。今川家滅亡後、掛川城主に就任。晩年は美濃大垣5万石を領した。家康への忠誠無二と評された。 |
石川 | | 家成 |
武将 | 弓 |
[収拾] [連射] |
40 | 44 | 44 |
45 | 75 |
89 |