『信長の野望 嵐世記』武将総覧

火間虫入道 > 『信長の野望の変遷』

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武将姓 武将名 出身・出自登場年 (誕生年-死亡年)
特技政治采配智謀 野望義理相性 列伝
こま つねみつ 通常版 越中 1552 (1537-1582)椎名家臣。小間家は椎名家重臣の家柄という。神保家や領内の寺社、能登畠山家に書状を出すなど、おもに外交に手腕を発揮した。主君・長常の偏諱を受けた。
小間 常光 武将荷駄
[外交]  462136 5455 31
あさくら かげあきら 通常版 越前若狭 1540 (1525-1574)朝倉家臣。景高の子。織田信長追撃の総大将を務めた。主君・義景が刀禰坂合戦に敗れた後は信長に通じ、義景を自害させた。のち、一向一揆勢に討たれた。
朝倉孫八郎景鏡 武将騎馬
[攻城]  364462 6930 21
あさくら のりかげ 通常版 越前若狭 1492 (1477-1555)朝倉家臣。朝倉家初代当主・敏景の子。軍奉行を務め、周辺諸国へ出兵し朝倉家の武威を内外に知らしめた。加賀一向一揆討伐の際に発病、帰国後に死去した。
朝倉小太郎教景 武将騎馬
[訓練] [登用] [回復] [突撃]  8010096 7290 51
かわい よしむね 通常版 越前若狭 1536 (1521-1573)朝倉家臣。一乗谷四奉行の1人として国政に参画したほか、浅井家救援のために近江に出陣した。刀禰坂合戦に従軍し、織田信長軍と戦って戦死したといわれる。
河合五郎兵衛吉統 武将
[回復]  631844 1275 51
あわや かつひさ 通常版 越前若狭 1538 (1523-1585)若狭武田家臣。国吉城主。のち織田信長に属して各地を転戦する。旧主・元明が蟄居させられた際は、赦免を信長に嘆願した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。
粟屋 勝久 武将
[改修] [収拾] [連射]  334045 2660 61
へんみ まさつね 通常版 越前若狭 1537 (1522-1581)若狭武田家臣。高浜城主。逸見家は若狭武田家の庶流。織田信長の越前侵攻軍に降り、各地を転戦した。その功により、旧領を安堵され、3千石を加増された。
逸見 昌経 武将
[槍衾]  383439 4935 11
わたなべ かんべえ 通常版 近江 1577 (1562-1640)阿閉家臣。主家滅亡後は豊臣・中村・増田・藤堂家に歴仕。豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山中城に一番乗りし秀吉から賞賛された。大坂の陣後、浪人した。
渡辺勘兵衛 武将
[収拾] [槍衾] [攻城]  97449 5850 61
おおの はるなが 通常版 近江 1585 (1570-1615)豊臣家臣。片桐且元が大坂城を退去した後、大坂城内を取りまとめる。大坂の陣では豊臣方の指導者的役割を果たした。大坂城落城の際、主君・秀頼に殉じた。
大野 治長 武将鉄砲
[茶湯]  421040 2275 21
くつき たねつな 通常版 近江 1513 (1498-1546)近江の豪族。三好元長に京を追われた将軍・足利義晴を居館にかくまう。その功により申次七人衆の1人に加えられた。以後も何度か足利将軍家をかくまった。
朽木弥五郎稙綱 武将
[茶湯]  575067 4955 61
くつき はるつな 通常版 近江 1533 (1518-1550)近江の豪族。稙綱の嫡男。宮内少輔を称した。はじめ貞綱といったが、将軍・足利義晴の偏諱を受けて晴綱と改名した。高島郡で高島越中守と戦い、戦死した。
朽木弥五郎晴綱 武将騎馬
[登用]  423728 4650 61
くつき もとつな 通常版 近江 1550 (1549-1632)近江の豪族。晴綱の子。織田信長の越前撤退の際に道案内を務め、以後は織田家に属した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦では東軍に寝返った。
朽木弥五郎元綱 武将
[連射] [説得]  482054 5545 61
ほそかわ ふじたか 通常版 山城 1549 (1534-1610)足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の擁立に貢献した。その後は的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。古今伝授を受けた文化人としても著名。
細川与一郎藤孝 武将
[外交] [奉仕] [茶湯] [守戦]  856682 7870 71
ほそかわ ただおき 通常版 山城 1578 (1563-1645)織田家臣。藤孝の子。明智光秀の娘を娶るが、本能寺の変後は豊臣家に属す。関ヶ原合戦では東軍に属し、豊前中津39万6千石を領した。利休七哲の1人。
細川与一郎忠興 武将
[商業] [茶湯] [激励] [雨撃]  757267 7280 71
まつい やすゆき 通常版 山城 1565 (1550-1612)足利家臣。茶の湯に通じた。主君・義輝の横死後は細川藤孝に仕え、丹後平定などで活躍した。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、豊後杵築2万6千石を領す。
松井新助康之 武将鉄砲
[開墾] [茶湯]  403144 1485 71
もみい のりなり 通常版 丹波丹後 1547 (1532-1576)波多野家臣。籾井城主。武勇をもって鳴り、「赤鬼」と称された赤井直正と並んで「青鬼」の異名をとった。羽柴秀吉の中国侵攻軍の攻撃を受け、戦死した。
籾井 教業 国人衆
[改修] [訓練] [連射]  177041 2185 21
ほんがんじ れんじゅん 通常版 加賀能登 1479 (1464-1550)本願寺8世法主・蓮如の十三男。大津顕証寺を経て、門徒の要望により河内顕証寺の住職となる。伊勢長島に願証寺を建立するなど、本願寺の発展に貢献した。
本願寺兼誉蓮淳 一向宗
[商業] [激励]  957582 8075 51
ほんがんじ しょうけい 通常版 摂津河内 1509 (1494-1574)蓮淳の孫。伊勢長島願証寺の住職を務めた。一向宗門徒を率いて織田信長の討伐軍に激しく抵抗するが、信長の焦土化作戦の前に敗北し、木曽川に身を投げた。
本願寺 証恵 一向宗鉄砲
[登用] [雨撃]  735952 1170 51
しもづま ちゅうこう 通常版 加賀能登 1566 (1551-1616)本願寺の坊官。頼照の子という。石山合戦で活躍した。織田信長と本願寺の和議に際しては、法主・顕如に代わって血判した。能楽に長じ「童舞抄」を著した。
下間 仲孝 一向宗荷駄
[外交] [三段]  585073 2880 51
くぼた つねただ 通常版 加賀能登 1526 (1511-1570)加賀の豪族。安吉城主。大炊介を称す。はじめ安吉家長に仕えたが、1550年に家長から安吉城を譲られ、城主となった。加賀一向一揆軍の頭領を務めた。
窪田 経忠 一向宗
[連射]  145250 4880 51
しちり よりちか 通常版 加賀能登 1532 (1517-1576)加賀の本願寺の代官。一向宗門徒の要請により富田長繁を討つが、翌年、織田信長の討伐軍に降る。のち法主・顕如の命によって松任城主・鏑木頼信を討った。
七里 頼周 一向宗
[三段] [攻城]  465350 6065 51

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