武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
みながわ | | としむね |
通常版 |
下野 |
1540 |
(1525-1573)下野の豪族。皆川城主。成勝の子。皆川家は、結城合戦で幕府側に属した長沼秀宗を始祖とする。秀宗の孫・宗成(俊宗の祖父)が皆川姓を初めて称した。 |
皆川 | | 俊宗 |
国人衆 | 弓 |
[開墾] |
34 | 40 | 43 |
40 | 70 |
61 |
みながわ | | ひろてる |
通常版 |
下野 |
1563 |
(1548-1627)下野の豪族。皆川城主。俊宗の子。北条家滅亡時に徳川家康に降る。のちに家康の六男・松平忠輝の付家老となったが、忠輝の不行跡を訴えて逆に改易された。 |
皆川 | 又三郎 | 広照 |
国人衆 | 鉄砲 |
[外交] [逃亡] |
44 | 20 | 48 |
49 | 30 |
61 |
あわや | | かつひさ |
通常版 |
越前若狭 |
1538 |
(1523-1585)若狭武田家臣。国吉城主。のち織田信長に属して各地を転戦する。旧主・元明が蟄居させられた際は、赦免を信長に嘆願した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。 |
粟屋 | | 勝久 |
武将 | 弓 |
[改修] [収拾] [連射] |
33 | 40 | 45 |
26 | 60 |
61 |
わたなべ | | かんべえ |
通常版 |
近江 |
1577 |
(1562-1640)阿閉家臣。主家滅亡後は豊臣・中村・増田・藤堂家に歴仕。豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山中城に一番乗りし秀吉から賞賛された。大坂の陣後、浪人した。 |
渡辺 | 了 | 勘兵衛 |
武将 | 槍 |
[収拾] [槍衾] [攻城] |
9 | 74 | 49 |
58 | 50 |
61 |
くつき | | たねつな |
通常版 |
近江 |
1513 |
(1498-1546)近江の豪族。三好元長に京を追われた将軍・足利義晴を居館にかくまう。その功により申次七人衆の1人に加えられた。以後も何度か足利将軍家をかくまった。 |
朽木 | 弥五郎 | 稙綱 |
武将 | 弓 |
[茶湯] |
57 | 50 | 67 |
49 | 55 |
61 |
くつき | | はるつな |
通常版 |
近江 |
1533 |
(1518-1550)近江の豪族。稙綱の嫡男。宮内少輔を称した。はじめ貞綱といったが、将軍・足利義晴の偏諱を受けて晴綱と改名した。高島郡で高島越中守と戦い、戦死した。 |
朽木 | 弥五郎 | 晴綱 |
武将 | 騎馬 |
[登用] |
42 | 37 | 28 |
46 | 50 |
61 |
くつき | | もとつな |
通常版 |
近江 |
1550 |
(1549-1632)近江の豪族。晴綱の子。織田信長の越前撤退の際に道案内を務め、以後は織田家に属した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦では東軍に寝返った。 |
朽木 | 弥五郎 | 元綱 |
武将 | 弓 |
[連射] [説得] |
48 | 20 | 54 |
55 | 45 |
61 |
おか | | よしまさ |
通常版 |
紀伊 |
1561 |
(1546-1585)紀伊の豪族。雑賀党の一員。石山本願寺に籠城し活躍した。すぐれた射撃の腕を持ち、織田信長が攻め寄せた際、信長を狙撃し大腿部に重傷を負わせたという。 |
岡 | 太郎次郎 | 吉正 |
一向宗 | 槍 |
[三段] |
8 | 34 | 39 |
25 | 75 |
61 |
つちばし | | もりしげ |
通常版 |
紀伊 |
1558 |
(1543-1582)紀伊の豪族。4人の子とともに石山本願寺に籠城して戦い、信長軍を苦しめた。のち石山本願寺を退去するが、所領に戻って抵抗を続けたため、謀殺された。 |
土橋 | 平次 | 守重 |
一向宗 | 荷駄 |
[登用] [雨撃] |
13 | 46 | 18 |
52 | 80 |
61 |
たじり | | あきたね |
通常版 |
筑後 |
1529 |
(1514-1583)筑後の豪族。鷹尾城主。龍造寺隆信に仕え、三池鎮実攻めで先鋒を務めた。一時隆信と不和になるが、間もなく和解。朝鮮派兵に従軍し「高麗日記」を著した。 |
田尻 | | 鑑種 |
国人衆 | 槍 |
[商業] |
38 | 34 | 41 |
40 | 70 |
61 |
あかし | | みつまさ |
通常版 |
筑後 |
1516 |
(1501-1555)筑後の豪族。赤司城主。龍造寺家兼が肥前を追放された際、親交を結ぶ。家兼の没後、龍造寺家に家督争いが起こったとき隆信を支持し、以後は隆信に仕えた。 |
赤司 | | 光正 |
国人衆 | 騎馬 |
[回復] |
35 | 42 | 47 |
44 | 45 |
61 |
りゅうぞうじ | | たねひさ |
通常版 |
肥前 |
1515 |
(1500-1539)龍造寺家17代当主。父・家和の死後、宗家・村中龍造寺家を継ぐ。少弐家臣・千葉胤勝より肥前に所領を与えられる。また大友義鑑からも所領を与えられた。 |
龍造寺 | 新次郎 | 胤久 |
武将 | 弓 |
[引抜] |
66 | 48 | 62 |
68 | 65 |
61 |
りゅうぞうじ | | たねみつ |
通常版 |
肥前 |
1539 |
(1524-1548)龍造寺家18代当主。胤久の子。父の死後、村中龍造寺家を継ぐ。大内義隆に属して少弐家と対立。のちに少弐冬尚を追放し、義隆から肥前代官に任ぜられた。 |
龍造寺 | 新次郎 | 胤栄 |
武将 | 弓 |
[攻城] |
52 | 23 | 30 |
41 | 40 |
61 |
かきみ | | いえずみ |
PK追加 |
近江 |
1582 |
(1567-1600)豊臣家臣。金切裂指物使番を務め、豊後富来2万石を領す。関ヶ原合戦では西軍に属し美濃大垣城に籠城するが、東軍に寝返った相良頼房らによって殺された。 |
垣見 | 弥五郎 | 家純 |
武将 | 弓 |
[雨撃] |
38 | 45 | 32 |
48 | 55 |
61 |
いしどうばら | | はちべえ |
諸勢力 |
武蔵 |
1535 |
(1520-1617)品川の商人。品川は品川港を擁する港町として発展した。江戸時代には東海道五十三次の一番目の宿場町となり、宿内の家々1千6百軒、人口7千人という。 |
石堂原 | | 八兵衛 |
都市 | 荷駄 |
[商業] [茶湯] |
52 | 62 | 55 |
49 | 95 |
61 |
たかさぶ | | りゅうき |
諸勢力 |
摂津河内 |
1592 |
(1577-1661)堺の商人。高三家は隆喜・隆達と代を伝え、薬種商を営んだ。隆達は小歌に巧みで「閑吟集」などの流行歌に独特の節回しをつけて歌い、隆達節を創始した。 |
高三 | 三郎左衛門 | 隆喜 |
都市 | 荷駄 |
[商業] [茶湯] |
49 | 44 | 44 |
42 | 60 |
61 |
せんしょうじ | | しゅうい |
諸勢力 |
羽前 |
1557 |
(1542-1616)羽前の僧侶。専称寺は本願寺8世法主・蓮如の高弟・願生坊が高擶(山形県天童市)に開いた寺で、村山地方に多数建立された真宗寺院の中心的存在となった。 |
専称寺 | | 秀意 |
一向宗 | 弓 |
[外交] |
57 | 59 | 60 |
60 | 35 |
61 |
こうふくじ | | じんそん |
諸勢力 |
大和 |
1595 |
(1580-1658)大和の僧侶。興福寺は藤原鎌足の夫人が山科に創建した山階寺が前身で、藤原不比等が奈良に移した。多数の僧兵を抱え大和一国を治める実力を持つに至った。 |
興福寺 | | 尋尊 |
旧仏教 | 槍 |
[外交] |
50 | 49 | 62 |
52 | 75 |
61 |