『信長の野望 蒼天録』新武将-東北-

伊達家

武将名投稿者列伝
亘理 元宗李儒殿 稙宗の子。早くから亘理家に養子に出された。輝宗に背いて相馬家に出奔した中野宗時父子の輝宗への仲介を引き受けるが、許しを得る事ができなかった。

相馬家

武将名投稿者列伝
相馬 秀胤李儒殿 顕胤の顕胤の次男。一門の副将格として、盛胤に従った。伊達軍との大沢城攻防戦を五ヶ月にわったって守備し、最終的に盛胤の本隊と伊達軍を撃破した。
相馬 宗胤李儒殿 顕胤の三男。駒ヶ嶺城城主をつとめ、伊達軍とよく戦った。伊達成実との駒ヶ嶺城篭城戦では、城を堅固に守り成実隊の士気が落ちるのを待ってから撃破した。
赤橋 元胤李儒殿 顕胤の四男。一族の赤橋家へ養子に入る。戦に出れば先鋒を務め槍の赤橋と恐れられた。初陣で首級十二をあげる軍功をたてた剛の者だが軍略にも通じていた。
相馬 盛宗李儒殿 盛胤の三男。父や兄たちとともに、伊達軍と戦った。伊達領伊具郡攻略戦に参陣し伊達輝宗と抗争を展開した。その後、豊臣秀吉に従い小田原の役に従軍した。
相馬 利胤李儒殿 相馬家17代当主。義胤の嫡男。関ヶ原の戦いの際、相馬家は改易されるが、利胤に領国を譲ると言う形として伊達政宗の取りなしがあり、本領を安堵された。
相馬 隆胤李儒殿 盛胤の次男。中村城代を務めた。伊達家との戦いで戦死した。勇猛な武将ではあったが「小利を貪ってついには大利を失うであろう」と言われていたという。
佐藤 好廉李儒殿 相馬家臣。好廉は顕胤・盛胤のもと伊達家との合戦に何度となく臨んでいる。佐藤氏は鎌倉期から続く名家で、中でも源義経家臣の継信・忠信兄弟は有名。
草野 直清李儒殿 相馬家臣。顕胤に仕え、中村城代を務めていた。中村城は801年に坂上田村麻呂が菅原実敬に命じて築かせたという。その後は中村家が代々居城としていた。
古賀 胤康李儒殿 相馬家臣。伊達家の内乱・天文の乱では相馬家が稙宗側についたため胤康は晴宗側と戦い、奮戦した。自身の最期も伊達家との戦いで戦死した。

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