『信長の野望 蒼天録』新武将-近畿-

朝倉家

武将名投稿者列伝
朝倉 景連 李儒殿 義景の叔父。一乗谷城の奉行を務めた。義景の加賀侵攻に際して、初日に津葉城を落とし、次の月には管生口で一向一揆と対陣し撃破している。
朝倉 景高 李儒殿 朝倉家臣。貞景の次男。大野郡代を務めた。兄・孝景と対立し出奔、若狭武田家を頼る。本願寺と結んで孝景打倒を目指すが実現せず、九州へ逐電したという。
朝倉 景恒 李儒殿 義景の従兄弟。義景に従って、景連の後任として一乗谷城の奉行となる。そして朝倉家の家臣団中最高の地位にあり、軍事全般を司り一揆と戦った。
朝倉 尚景 李儒殿 朝倉景紀の子。幼少のころより武芸をたしなみ、小太刀の大家と言われ名人越後より技の師事を受けた。のち越前に侵入する一向勢と対決し活躍した。
朝倉 知景 李儒殿 義景の嫡男。幼名雪夜叉。姉川の合戦に敗れてから、信長に抵抗し続けたが、信長は越前侵攻を開始、知景は刀祢坂の合戦で敗北、逃亡中に討ち死にした。

浅井家

武将名投稿者列伝
浅井 政元李儒殿 近江の戦国大名、浅井久政の子で、長政の弟。主に、浅井家の裏方であり財政管理をしていたと言う。1573年小谷城落城寸前まで戦い、自刃して果てた。
浅井 輝政李儒殿 万福丸。長政の嫡男。長政の世継として浅井家4代目当主の期待を待ち望まれていたが、父が織田信長により自害した後に、関ヶ原で串刺しにされて果てた。
雨森 政継李儒殿 弥兵衛。浅井家臣。海北綱親・赤尾清綱とともに「海赤雨三将」と称された。古参の重臣であり、浅井氏の旗頭をも務めた。小谷城落城時に討死にした

六角家

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六角 定仲李儒殿 六角定頼の次男。1559年、浅井氏と琵琶湖を挟んで対峙するが、野良田で激突。しかし、浅井の強兵と長政の巧みな指揮のもとに敗れさった。
六角 義定李儒殿 義賢の次男。肥後守。織田信長の侵攻で、観音寺城を奪われたのちは洛外で隠棲していたが、豊臣秀吉に召されて仕え、さらに徳川家康に仕えた。
遠藤 賢正李儒殿 六角家臣。遠藤氏は古くから六角氏に仕えた家柄である。賢正は後藤氏とともに六角氏内で勢力をあげたが、後藤賢豊に連座し「観音寺騒動」で死亡した。
進藤 賢治李儒殿 六角家臣。木浜城主貞治の子。後藤氏とともに「両藤」と呼ばれた。1562年、義賢らが上洛した際には、大徳寺の警護を務めている。

足利家

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足利 義栄 李儒殿 足利幕府第14代将軍。義輝死後、三好三人衆らの手により次期将軍職にまつりあげられるが、義昭を擁立し京へ侵攻してきた織田軍に追い払われた。
三淵 晴員 李儒殿 細川氏一門。幕府奉行衆のひとり。将軍義晴・義輝・義昭に仕えた。三好長慶らの侵攻に対して孤軍奮闘したが敗れ、近江国坂本へ逃れていった。
柳沢 元政 李儒殿 京の名族柳沢氏の流れをくむ元政は義晴・義輝・義昭に仕えた。早くから鉄砲の重要性を説き、鉄砲隊を編成した。のち、織田家と対立すると自ら蟄居した。

細川家

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細川 高邦 李儒殿 細川氏一門衆。四国を舞台に三好家と激戦を繰り返す。しかし、讃岐で十河一存に敗れ、阿波沖で安宅冬康に敗れて、遂に三好家と和睦した。
田口 高能 李儒殿 細川家臣・讃岐の豪族。讃岐水軍の頭領の一人。田口家は細川家に属し長宗我部元親の讃岐侵攻軍と戦うが奮戦むなしく敗れさった。
兵頭 勝安 李儒殿 細川家臣。野木城主。兵頭家は古くからの豪族であったが、石島の乱以降、家臣となる。三好家との合戦の際、義賢の居城を攻囲中に病死した。
兵頭 勝元 李儒殿 細川家臣。勝安の嫡男。足利義昭を擁して上洛した織田信長に属す。織田勢のなかにあっては、あまり戦果をほこれず、最期は本能寺で戦死した。

本願寺家

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本願寺 蓮若 李儒殿 本願寺蓮淳の三男。1531年、亨禄の錯乱と呼ばれる本願寺派内訌に遭遇し、翌年には法華宗徒と六角定頼の連合軍と、山科で対峙した。
本願寺 准如 李儒殿 本願寺12世法主。顕如の次男。1593年、豊臣秀吉の支持を受け、兄教如にかわって本願寺住職の座に就く。その後も兄と対立し、西本願寺を本拠とした。
下間 頼明 李儒殿 真宗本願寺派の僧。本願寺10世・証如に仕える。1573年、門徒領国に境を接する加賀国に織田勢が侵攻。頼明は逆撃をもって越前に侵入したが討死した。

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