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重視 | 思考 | 出身 | 出自 |
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武将姓 | 武将名 |
政治 | 統率 | 知略 |
相性 | 義理 | 野心 | 列伝 |
兵科 | 特技 | 策戦1 |
策戦2 | 策戦3 | |
なす | まさすけ |
幕府 | 保守鷹派 | 下野 | 武将 | (1497-1546)下野の戦国大名。那須家は藤原道長の曾孫・資家が始祖。資隆の時、はじめて那須姓を称した。資隆の子が、屋島の合戦で扇の的を射抜いた与一宗隆である。
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那須 |
政資 |
46 | 54 | 50 |
Q |
57 | 61 |
長槍 | 改修 |
威圧 | 迎撃 |
- |
なす | たかすけ |
幕府 | 好戦人情 | 下野 | 武将 | (1520-1551)下野の戦国大名。政資の嫡男。父と対立し、父と結ぶ宇都宮尚綱に攻められるが尚綱を討って撃退した。のち尚綱の子・広綱と芳賀高定の謀略に遭い横死した。
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那須 |
高資 |
32 | 69 | 13 |
Q |
41 | 64 |
長槍 | 登用 |
離反 | 迎撃 |
- |
なす | すけたね |
幕府 | 好戦直情 | 下野 | 武将 | (1527-1583)下野の戦国大名。政資の次男。兄・高資の横死後、大関高増らの後見で家督を継ぐ。のちに高増ら上那須衆と対立して攻撃を受け敗北、隠居を条件に和睦した。
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那須 |
資胤 |
18 | 50 | 42 |
V |
31 | 74 |
足軽 | 威圧 |
罵声 | 迎撃 |
- |
なす | すけはる |
幕府 | 好戦直情 | 下野 | 武将 | (1557-1610)下野の戦国大名。資胤の嫡男。薄葉ヶ原合戦で宇都宮軍に大勝し、近隣に武名を轟かせた。豊臣秀吉の小田原征伐の際に遅参したため、所領を没収された。
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那須 |
資晴 |
31 | 34 | 26 |
R |
36 | 58 |
足軽 | 哀願 |
治療 | - |
- |
なす | すけかげ |
幕府・名声 | 保守鳩派 | 下野 | 武将 | (1586-1656)下野那須藩主。資晴の嫡男。小田原征伐に遅参して改易された父に代わって5千石を領した。関ヶ原合戦では東軍に属した。大坂の陣にも参加し、功を立てた。
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那須 |
資景 |
36 | 16 | 38 |
R |
52 | 38 |
足軽 | 弁舌 |
混乱 | - |
- |
なす | すけちか |
無し | 保守鷹派 | 下野 | 武将 | (1461-1516)上那須家当主。白河結城政朝の子・資永を娘婿に迎えるが、直後に実子・資久が誕生。臨終の際、資久に家督を継がせるよう指示、那須家内紛の原因を作った。
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那須 |
資親 |
36 | 46 | 51 |
V |
38 | 33 |
騎馬 | 威圧 |
威圧 | 分断 |
- |
なす | すけふさ |
無し | 保守鷹派 | 下野 | 武将 | (1476-1552)下那須家当主。内紛で上那須家が断絶した後、家督を継ぎ上下那須家を統一。箒川の合戦で行った、白河結城家との縄引きが「大捻縄引」の起源とされる。
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那須 |
資房 |
29 | 28 | 21 |
Q |
65 | 27 |
長槍 | 農業 |
収拾 | - |
- |
なす | よいち |
無し | 好戦直情 | 下野 | 武将 | (1567-1610)源平期の下野の豪族。余一とも。屋島合戦で、海上の平氏の船上に掲げられた扇の的を射落とす功を立てた。平氏滅亡後石清水八幡宮に詣でた帰りに急死。
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那須 |
与一 |
19 | 70 | 24 |
Q |
68 | 18 |
足軽 | 農業 |
罵声 | 修復 |
- |