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重視 | 思考 | 出身 | 出自 |
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武将姓 | 武将名 |
政治 | 統率 | 知略 |
相性 | 義理 | 野心 | 列伝 |
兵科 | 特技 | 策戦1 |
策戦2 | 策戦3 | |
こくぶん | もりうじ |
無し | 保守鷹派 | 陸前 | 国人 | (1506-1575)陸奥の豪族。能登守と称した。1189年、源頼朝が陸奥平泉の藤原家を滅ぼした際に、焼け落ちて名前だけが残っていた国分尼寺を、1570年に再建した。
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国分 |
盛氏 |
45 | 32 | 25 |
Y |
38 | 37 |
騎馬 | 改修 |
収拾 | - |
- |
こくぶん | もりあき |
名声 | 保守鳩派 | 陸前 | 国人 | (1528-1582)陸奥の豪族。盛氏の子。国分家は源頼朝の奥州征伐に従った千葉常胤の五男・胤通を祖とする。子がなかったため、伊達晴宗の十男・盛重を養子として迎えた。
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国分 |
盛顕 |
22 | 13 | 32 |
Y |
52 | 8 |
足軽 | 哀願 |
混乱 | - |
- |
しらかわ | よしあき |
朝廷・名声 | 保守鳩派 | 磐城 | 高家 | (1567-1613)白河結城家当主。晴綱の嫡男。父の死後に家督を継ぐが、後見役の小峰義親をはじめとする家臣たちによって居城を追われた。子孫は秋田藩に仕えたという。
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白河 |
義顕 |
31 | 14 | 10 |
Y |
60 | 41 |
鉄砲 | 哀願 |
混乱 | - |
- |
だいほうじ | はるとき |
幕府 | 保守鷹派 | 羽前 | 旧仏教 | (1502-1541)出羽の豪族。澄氏の子。氏説の子ともいう。大宝寺家は、祖・武藤氏平が庄内大泉荘の地頭となったことに始まる。大宝寺姓を名乗るのは武藤長盛の時である。
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大宝寺 |
晴時 |
49 | 46 | 62 |
Y |
53 | 33 |
騎馬 | 改修 |
収拾 | 誘導 |
迎撃 |
だいほうじ | よします |
幕府 | 保守鷹派 | 羽前 | 旧仏教 | (1522-1581)出羽の豪族。九郎(政氏の子または弟)の子。庶流の砂越家と合戦を繰り返すが1532年に居城・鶴ヶ岡城を焼かれたため、尾浦城に本拠を移した。
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大宝寺 |
義増 |
42 | 45 | 40 |
Y |
57 | 50 |
足軽 | 農業 |
威圧 | 誘導 |
- |
だいほうじ | よしうじ |
幕府 | 好戦直情 | 羽前 | 旧仏教 | (1551-1583)出羽の豪族。義増の子。合戦に明け暮れて領政を軽んじたため、領民から「悪屋形」と憎悪された。最上義光に通じた家臣・前森蔵人に謀叛され、自害した。
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大宝寺 |
義氏 |
24 | 59 | 6 |
Y |
26 | 81 |
騎馬 | 威圧 |
罵声 | 誘導 |
- |
だいほうじ | よしおき |
幕府・名声 | 保守鷹派 | 羽前 | 旧仏教 | (1553-1587)出羽の豪族。義増の子。兄・義氏の死後家督を継ぐ。上杉家臣・本庄繁長の次男を養子に迎え、上杉家との関係強化をはかるが、最上義光に攻められ自害した。
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大宝寺 |
義興 |
35 | 36 | 40 |
Y |
35 | 56 |
長槍 | 哀願 |
鼓舞 | 迎撃 |
- |
あべ | よしてる |
朝廷・名声 | 保守鳩派 | 羽前 | 旧仏教 | (1504-1553)出羽の豪族。いでわ神社の別当職を務めた。1533年に磐井出館を築き、居城とした。子・貞嗣は最上家に属し、1588年の十五里ヶ原合戦で戦死した。
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阿部 |
良輝 |
54 | 9 | 36 |
Y |
22 | 34 |
足軽 | 弁舌 |
治療 | - |
- |
きすぎ | ときひで |
無し | 好戦陰湿 | 羽前 | 国人 | (1543-1575)出羽の豪族。16世紀後半、飽海郡に観音寺城を築き、居城とした。尾浦城主・大宝寺家に仕え、約2千5百石を知行したという。
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来次 |
時秀 |
51 | 34 | 24 |
Y |
30 | 32 |
騎馬 | 登用 |
威圧 | - |
- |
きすぎ | うじひで |
名声 | 保守鷹派 | 羽前 | 国人 | (1567-1606)出羽の豪族。時秀の子。大宝寺家と最上家の間で去就に迷う。十五里ヶ原合戦以降は上杉家に従った。1601年、居城の観音寺城を捨て米沢に赴いたという。
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来次 |
氏秀 |
40 | 24 | 49 |
Y |
17 | 11 |
足軽 | 哀願 |
密偵 | 迎撃 |
- |
なりた | ながやす |
幕府 | 好戦陰湿 | 武蔵 | 武将 | (1508-1586)山内上杉家臣。忍城主。主家滅亡後は上杉謙信に属した。しかし、謙信が鶴岡八幡宮に参拝した際、謙信の怒りを買ったため離反し、その後は北条家に属した。
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成田 |
長泰 |
46 | 50 | 54 |
Y |
13 | 71 |
長槍 | 改修 |
混乱 | 誘導 |
- |
なりた | うじなが |
幕府・名声 | 保守鳩派 | 武蔵 | 武将 | (1542-1595)北条家臣。忍城主。長泰の嫡男。豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に籠城。居城は石田三成の水攻めに抗戦、落ちなかった。主家滅亡後は蒲生氏郷に仕えた。
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成田 |
氏長 |
55 | 45 | 59 |
Y |
57 | 20 |
足軽 | 哀願 |
収拾 | 修復 |
- |
なりた | おさただ |
幕府・名声 | 保守鳩派 | 武蔵 | 武将 | (1547-1616)北条家臣。忍城主。長泰の次男。主家滅亡後は蒲生氏郷に仕える。兄・氏長の死後、その遺領を継いだ。関ヶ原合戦では東軍に属した。大坂の陣にも参陣した。
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成田 |
長忠 |
52 | 36 | 34 |
Y |
60 | 47 |
騎馬 | 弁舌 |
治療 | 迎撃 |
- |
おだ | ともおき |
幕府 | 保守鷹派 | 武蔵 | 武将 | (1512-1571)成田家臣。成田親泰の次男。騎西城主・小田家の家督を継ぐ。兄・長泰が上杉謙信に背いた際、謙信に居城を奪われた。のちに騎西城は兄によって奪還された。
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小田 |
朝興 |
34 | 32 | 16 |
Y |
52 | 34 |
騎馬 | 商業 |
罵声 | - |
- |
なりた | やすすえ |
幕府・名声 | 保守鳩派 | 武蔵 | 武将 | (1516-1590)成田家臣。親泰の子。忍城の城代を務めた。1566年、兄・長泰が家督を長忠(長泰の次男)に譲ると宣言した際は、他の重臣らとともにこれに反対した。
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成田 |
泰季 |
45 | 20 | 36 |
Y |
46 | 15 |
足軽 | 登用 |
鼓舞 | - |
- |
よしだ | しげまさ |
無し | 保守鷹派 | 近江 | 武将 | (1522-1581)六角家臣。吉田流弓術の祖・重賢の子。主君・義賢から弓術の伝授を求められるが拒否して出奔、一時朝倉家に仕える。数年後に帰参し、義賢に弓術を授けた。
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吉田 |
重政 |
7 | 64 | 33 |
Y |
32 | 38 |
足軽 | 登用 |
威圧 | 誘導 |
- |
いっしき | よしゆき |
幕府・名声 | 保守鳩派 | 丹後 | 高家 | (1498-1563)丹後の戦国大名。隣国の若狭武田家としばしば戦った。一色家は清和源氏足利家一門で、山名・赤松・京極家とともに四職の家格となり、幕府で重きをなした。
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一色 |
義幸 |
41 | 45 | 32 |
Y |
47 | 31 |
足軽 | 弁舌 |
混乱 | 誘導 |
- |
いっしき | よしみち |
幕府 | 好戦人情 | 丹後 | 高家 | (1533-1579)丹後の戦国大名。義幸の子。京を追われた将軍・足利義昭を庇護したため、織田軍に攻められる。善戦するが、家臣・沼田勘解由の内通により敗れ、自害した。
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一色 |
義道 |
26 | 57 | 31 |
Y |
64 | 55 |
騎馬 | 登用 |
威圧 | 分断 |
- |
いっしき | みつのぶ |
幕府 | 好戦直情 | 丹後 | 高家 | (1558-1582)丹後の戦国大名。義道の子。父の死後、家臣・稲富祐直を頼り、細川藤孝軍と戦う。のち明智光秀の斡旋で和睦し藤孝の娘を娶るが、再び背いたため殺された。
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一色 |
満信 |
46 | 60 | 44 |
Y |
61 | 49 |
鉄砲 | 威圧 |
罵声 | 迎撃 |
- |
いっしき | よしきよ |
幕府 | 保守鷹派 | 丹後 | 高家 | (1535-1582)丹後の戦国大名。甥・満信が細川藤孝に謀殺されたあと、弓木城に入り一色宗家を継いだ。しかし、細川忠興に城を包囲されたため、敵陣に突入して戦死した。
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一色 |
義清 |
33 | 49 | 37 |
Y |
56 | 43 |
長槍 | 農業 |
鼓舞 | 迎撃 |
- |