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重視 | 思考 | 出身 | 出自 |
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武将姓 | 武将名 |
政治 | 統率 | 知略 |
相性 | 義理 | 野心 | 列伝 |
兵科 | 特技 | 策戦1 |
策戦2 | 策戦3 | |
おおさき | よしなお |
幕府・名声 | 保守鷹派 | 陸前 | 高家 | (1506-1577)大崎家12代当主。伊達稙宗の援助によって家臣の謀叛を鎮圧するなど、勢力を次第に失う。天文の大乱では伊達晴宗に与力し稙宗に属した大崎義宣と戦った。
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大崎 |
義直 |
39 | 30 | 34 |
J |
43 | 55 |
足軽 | 哀願 |
混乱 | - |
- |
おおさき | よしたか |
幕府 | 好戦陰湿 | 陸前 | 高家 | (1548-1603)大崎家13代当主。義直の子。伊達政宗の軍を1度は退けるが、のちにその傘下に入る。豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため改易され、上杉景勝に仕えた。
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大崎 |
義隆 |
43 | 41 | 20 |
J |
47 | 50 |
足軽 | 農業 |
鼓舞 | - |
- |
いちはさま | たかざね |
名声 | 好戦陰湿 | 陸前 | 武将 | (1549-1593)大崎家臣。真坂城主。伊豆守と称す。狩野姓も称した。一迫・狩野家は大崎一族の参謀を務めたという。天正末期の主家内乱に際しては、氏家吉継に味方した。
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一迫 |
隆真 |
48 | 17 | 60 |
J |
33 | 36 |
長槍 | 商業 |
密偵 | 誘導 |
- |
なんじょう | たかのぶ |
無し | 好戦人情 | 陸前 | 武将 | (1559-1593)大崎家臣。中新田城主。大崎家内乱の際には居城を守備し、神技に等しい作戦と指揮で、見事に伊達政宗の軍勢を撃退。大崎家侍大将中の名将とたたえられた。
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南条 |
隆信 |
17 | 68 | 57 |
J |
92 | 38 |
騎馬 | 登用 |
虚報 | 修復 |
迎撃 |
にいだ | たかかげ |
名声 | 保守鷹派 | 陸前 | 武将 | (1573-1593)大崎家臣。新井田城主。義隆の小姓を務めた。家中屈指の美少年で、同じく小姓の伊場野惣八郎と寵を争い、これがきっかけで大崎家の内乱が引き起こされた。
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新井田 |
隆景 |
45 | 27 | 47 |
J |
29 | 80 |
騎馬 | 哀願 |
混乱 | 誘導 |
- |
みやざき | たかちか |
無し | 好戦人情 | 陸前 | 武将 | (1542-1596)大崎家臣。宮崎城主。侍大将を務めた。葛西・大崎一揆の際は総大将を務め、居城に籠城して伊達軍と戦ったが敗れた。落城後は秋田仙北に隠れ住んだという。
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宮崎 |
隆親 |
19 | 56 | 41 |
J |
86 | 41 |
長槍 | 威圧 |
収拾 | 修復 |
- |
あんとう | きよすえ |
朝廷・名声 | 保守鷹派 | 羽後 | 武将 | (1514-1553)檜山安東家7代当主。1550年、蠣崎季広とアイヌ族の和睦協定を裁定するために蝦夷地に渡った。この事により、檜山安東家の蝦夷支配体制が確立された。
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安東 |
舜季 |
57 | 37 | 34 |
J |
57 | 54 |
足軽 | 商業 |
治療 | 誘導 |
- |
あんとう | ちかすえ |
朝廷 | 天下布武 | 羽後 | 武将 | (1539-1587)檜山安東家8代当主。舜季の嫡男。湊・檜山の両安東家を統一し、巧みな戦略で安東家最大の版図を築き上げ「斗星の北天に在るにさも似たり」と恐れられた。
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安東 |
愛季 |
78 | 70 | 75 |
J |
53 | 87 |
長槍 | 農業 |
威圧 | 虚報 |
迎撃 |
あんとう | さねすえ |
朝廷 | 保守鷹派 | 羽後 | 武将 | (1576-1659)檜山安東家9代当主。愛季の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。南部家や戸沢家と抗争し、所領を守り抜くが、関ヶ原合戦での不手際により、秋田領を追われた。
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安東 |
実季 |
45 | 44 | 54 |
J |
41 | 53 |
鉄砲 | 改修 |
鼓舞 | 迎撃 |
- |
あんとう | たかすえ |
朝廷 | 保守鷹派 | 羽後 | 武将 | (1492-1551)湊安東家7代当主。宣季の子。父の死後家督を継ぎ、管領細川家の執事から「謹上書衆」に遇された。男子に恵まれず、娘婿・舜季の三男・茂季を養子とした。
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安東 |
堯季 |
49 | 53 | 48 |
J |
67 | 64 |
騎馬 | 登用 |
威圧 | 誘導 |
- |
いそのめ | ひでかね |
無し | 保守鳩派 | 羽後 | 武将 | (1547-1586)安東家臣。愛季の直臣。安東家に叛旗を翻した大館城主・浅利勝頼が、安東家との戦いに敗れて居城を明け渡したのち、大館城に入り、比内代官となった。
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五十目 |
秀兼 |
44 | 31 | 47 |
J |
60 | 14 |
足軽 | 農業 |
収拾 | 迎撃 |
- |
おおわだ | みつもり |
名声 | 好戦陰湿 | 羽後 | 国人 | (1507-1549)小野寺家臣。横手城主。1546年、金沢金乗坊とともに謀叛を起こし、主君・惟道を討つ(平城の乱)。しかし、のちに惟道の嫡男・輝道によって討たれた。
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大和田 |
光盛 |
32 | 27 | 45 |
J |
6 | 77 |
騎馬 | 弁舌 |
混乱 | 放火 |
- |
なかの | むねとき |
名声 | 好戦陰湿 | 羽前 | 武将 | (1503-1575)伊達家臣。天文の大乱では主君・晴宗の参謀を務め、乱の終息後は家中で最大の勢力を誇った。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れて逃亡し、流浪の末、餓死した。
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中野 |
宗時 |
77 | 11 | 61 |
J |
26 | 80 |
足軽 | 弁舌 |
混乱 | 誘導 |
- |
まきの | ひさなか |
名声 | 好戦陰湿 | 羽前 | 武将 | (1532-1575)伊達家臣。中野宗時の次男。桑折貞長とともに奥州守護代を務め、父とともに伊達家中の政務を取り仕切る。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れ、相馬領に逃れた。
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牧野 |
久仲 |
75 | 5 | 66 |
J |
20 | 86 |
足軽 | 弁舌 |
威圧 | 誘導 |
- |
さたけ | よしのぶ |
幕府 | 天下布武 | 常陸 | 武将 | (1570-1633)佐竹家19代当主。義重の嫡男。父に劣らぬ猛将ぶりで知られた。関ヶ原合戦では西軍に属す決意を固くし、徳川家康から「今の世に稀な律儀者」と評された。
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佐竹 |
義宣 |
68 | 72 | 54 |
J |
86 | 73 |
長槍 | 改修 |
鼓舞 | 焙烙 |
破壊 |
さたけ | よしひさ |
幕府 | 好戦陰湿 | 常陸 | 武将 | (1554-1601)佐竹家臣。東家・義堅の次男。南陸奥方面支配の総指揮を執り、内政、軍事、外交などに幅広い活躍を見せた。石田三成を通じて豊臣秀吉とも親交を結んだ。
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佐竹 |
義久 |
65 | 64 | 51 |
J |
68 | 47 |
鉄砲 | 登用 |
鼓舞 | 密偵 |
誘導 |
うめづ | のりただ |
無し | 好戦直情 | 下野 | 武将 | (1572-1630)佐竹家臣。大坂の陣では重傷を負うも奮戦、「佐竹の黄鬼」の異名をとる。のちに家老となり、その正明果断な人となりで主君・義宣から絶大な信頼を受けた。
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梅津 |
憲忠 |
63 | 68 | 36 |
J |
72 | 58 |
騎馬 | 改修 |
威圧 | 破壊 |
迎撃 |
うめづ | まさかげ |
名声 | 保守鳩派 | 下野 | 武将 | (1581-1633)佐竹家臣。勘定奉行や家老を歴任し兄・憲忠とともに主君・義宣の厚い信頼を得た。当時の藩政を記録した「梅津政景日記」は、歴史学上の貴重な史料である。
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梅津 |
政景 |
73 | 30 | 45 |
J |
73 | 39 |
長槍 | 農業 |
治療 | 修復 |
- |
くるま | つなただ |
名声 | 好戦陰湿 | 常陸 | 武将 | (1552-1602)佐竹家臣。和田昭為を主君・義重に讒言して追放、義重の側近となる。関ヶ原合戦の際は上杉家に属した。主家転封後、水戸城の奪回を企むが敗れて殺された。
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車 |
斯忠 |
41 | 34 | 54 |
J |
11 | 75 |
騎馬 | 哀願 |
罵声 | 破壊 |
- |
しぶえ | まさみつ |
無し | 保守鳩派 | 下野 | 国人 | (1574-1614)佐竹家臣。主君・義宣の絶大な信頼を受け、秋田藩の経略に尽力。独自の検地法「渋江田法」により、藩財政の根幹を固めた。大坂冬の陣に従軍し、戦死した。
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渋江 |
政光 |
76 | 18 | 60 |
J |
80 | 19 |
鉄砲 | 農業 |
離反 | 誘導 |
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