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重視 | 思考 | 出身 | 出自 |
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武将姓 | 武将名 |
政治 | 統率 | 知略 |
相性 | 義理 | 野心 | 列伝 |
兵科 | 特技 | 策戦1 |
策戦2 | 策戦3 | |
おおの | はるなが |
朝廷・名声 | 保守鳩派 | 近江 | 武将 | (1570-1615)豊臣家臣。片桐且元が大坂城を退去した後、大坂城内を取りまとめる。大坂の陣では豊臣方の指導者的役割を果たした。大坂城落城の際、主君・秀頼に殉じた。
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大野 |
治長 |
45 | 15 | 38 |
E |
74 | 23 |
鉄砲 | 茶湯 |
迎撃 | - |
- |
すすきだ | かねすけ |
無し | 好戦直情 | 山城 | 武将 | (1578-1615)豊臣家臣。大坂冬の陣で博労ヶ淵砦の守備に失敗し、「橙武者」と嘲られた。大坂夏の陣で勇戦し、戦死した。ヒヒ退治の豪傑・岩見重太郎と同一人物という。
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薄田 |
兼相 |
1 | 62 | 2 |
E |
39 | 67 |
長槍 | 威圧 |
罵声 | 破壊 |
- |
おさふね | さだちか |
名声 | 保守鳩派 | 備前 | 武将 | (1529-1588)宇喜多家臣。宇喜多三老の1人。明禅寺合戦など各地の合戦に従軍し、主君・直家の創業を助けた。戸川秀安の隠退後は国政を担当する。のち妹婿に殺された。
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長船 |
貞親 |
62 | 54 | 65 |
E |
50 | 62 |
騎馬 | 登用 |
密偵 | 修復 |
誘導 |
おさふね | つななお |
無し | 保守鳩派 | 備前 | 切支丹 | (1558-1598)宇喜多家臣。貞親の子。主家の国政を執り、領内の検地や城下町整備などを行った。主君・秀家の寵を得て専権を振るったため、敵対勢力に毒殺されたという。
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長船 |
綱直 |
71 | 29 | 57 |
E |
59 | 67 |
鉄砲 | 商業 |
混乱 | 修復 |
- |
おさふね | さだゆき |
名声 | 保守鳩派 | 備前 | 武将 | (1560-1605)宇喜多家臣。貞親の子。兄・綱直の死後家督を継ぐ。家中屈指の大身で、2万4千石を知行した。主君・秀家に従い関ヶ原合戦に出陣、戦後行方不明となった。
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長船 |
定行 |
45 | 36 | 52 |
E |
65 | 32 |
鉄砲 | 弁舌 |
焙烙 | 迎撃 |
- |
たわら | ちかいえ |
幕府 | 好戦直情 | 豊後 | 切支丹 | (1561-1641)大友家臣。宗麟の次男。父の命で僧侶となるが、武術に励み、のちに還俗。島津義久に通じたため、所領を没収される。主家改易後は肥後細川家などに仕えた。
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田原 |
親家 |
25 | 60 | 23 |
E |
59 | 72 |
長槍 | 農業 |
誘導 | 挑発 |
- |
たわら | ちかもり |
幕府 | 保守鷹派 | 豊後 | 切支丹 | (1567-1643)大友家臣。宗麟の三男。耳川合戦の際は豊後に残った。おもに豊前方面で活動する。戸次川合戦に従軍するが、島津軍に敗れた。主家改易後は細川家に仕えた。
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田原 |
親盛 |
30 | 47 | 35 |
E |
40 | 64 |
鉄砲 | 威圧 |
威圧 | 誘導 |
- |
しが | ちかのり |
無し | 保守鳩派 | 豊後 | 武将 | (1535-1587)大友家臣。豊後岡城主。親守の子。肥後方分を務めた。主君・義統とたびたび対立する。のち島津義久の豊後侵攻軍に内応し、子・親次により自害させられた。
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志賀 |
親度 |
26 | 19 | 35 |
E |
23 | 50 |
足軽 | 威圧 |
罵声 | - |
- |
しが | ちかつぐ |
無し | 保守鷹派 | 豊後 | 武将 | (1566-1607)大友家臣。豊後岡城主。親度の子。島津家臣・新納忠元率いる3万5千の軍勢をわずか千の兵で撃退し、さらに近隣の諸城を奪回し、豊臣秀吉に功を賞された。
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志賀 |
親次 |
9 | 74 | 66 |
E |
31 | 29 |
長槍 | 改修 |
焙烙 | 修復 |
迎撃 |
たかはし | あきたね |
無し | 保守鷹派 | 豊後 | 武将 | (1530-1579)大友家臣。筑前宝満城主を務め、筑前の経略を担当する。のちに毛利家に通じて謀叛を起こし、大友家と毛利家が筑前を舞台に全面対決するきっかけを作った。
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高橋 |
鑑種 |
41 | 61 | 45 |
E |
54 | 78 |
長槍 | 威圧 |
密偵 | 迎撃 |
- |
きくち | よしたけ |
幕府 | 好戦直情 | 肥後 | 武将 | (1505-1554)大友義長の次男。肥後の名家・菊池家を継ぐ。大内家と結んで兄・義鑑と戦うが敗れた。二階崩れの変後、再起して肥後の制圧をはかるが甥・宗麟に討たれた。
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菊池 |
義武 |
18 | 28 | 16 |
E |
11 | 82 |
足軽 | 威圧 |
罵声 | - |
- |
あそ | これとよ |
朝廷・名声 | 好戦陰湿 | 肥後 | 旧仏教 | (1493-1559)肥後の豪族。岩尾城主。兄・惟長に一時居城を追われるが、家臣・甲斐親宣の助力で阿蘇大宮司職に復した。のちに禁裏修理料を献上し、勅使の下向を迎えた。
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阿蘇 |
惟豊 |
70 | 42 | 67 |
E |
46 | 67 |
足軽 | 威圧 |
混乱 | 破壊 |
迎撃 |
あそ | これまさ |
朝廷 | 保守鳩派 | 肥後 | 旧仏教 | (1526-1583)肥後の豪族。岩尾城主。惟豊の子。阿蘇大宮司を務めた。大友家に属す。家臣・甲斐親直の助力で、龍造寺家および島津家と和平交渉を行い、領国を維持した。
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阿蘇 |
惟将 |
54 | 45 | 46 |
E |
77 | 49 |
長槍 | 弁舌 |
収拾 | 迎撃 |
- |
あそ | これたね |
朝廷 | 保守鳩派 | 肥後 | 旧仏教 | (1539-1583)肥後の豪族。岩尾城主。惟豊の子。兄・惟将に男子がなかったため、兄の養子となって家督を継ぎ、阿蘇大宮司に就任した。しかしそのわずか1ヶ月後に死去。
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阿蘇 |
惟種 |
45 | 38 | 41 |
E |
59 | 60 |
足軽 | 商業 |
密偵 | 迎撃 |
- |
あそ | これみつ |
朝廷 | 保守鳩派 | 肥後 | 旧仏教 | (1582-1593)肥後の豪族。岩尾城主。惟種の子。わずか3歳で阿蘇大宮司となる。豊臣秀吉に降り、佐々成政に仕えるが、肥後国人一揆を扇動したとの讒言により殺された。
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阿蘇 |
惟光 |
27 | 26 | 11 |
E |
55 | 43 |
鉄砲 | 哀願 |
誘導 | - |
- |
かい | そううん |
朝廷 | 好戦人情 | 肥後 | 旧仏教 | (1515-1584)阿蘇家臣。肥後御船城主。大友家と結んで龍造寺家や島津家と外交交渉を行い、阿蘇家の存続に努めた。島津家に属した相良義陽の攻撃を受けるが、撃退した。
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甲斐 |
宗運 |
80 | 71 | 81 |
E |
91 | 59 |
長槍 | 登用 |
虚報 | 治療 |
分断 |
かい | ちかひで |
朝廷 | 保守鷹派 | 肥後 | 武将 | (1538-1587)阿蘇家臣。肥後御船城主。宗運の子。島津軍に敗れて和睦するが、大友家との連絡を警戒され、肥後八代に抑留された。国人一揆に加担し、敗走中に討たれた。
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甲斐 |
親英 |
48 | 36 | 54 |
E |
43 | 78 |
足軽 | 改修 |
罵声 | 迎撃 |
- |
きたざと | まさよし |
朝廷・名声 | 保守鳩派 | 肥後 | 国人 | (1553-1592)阿蘇家臣。肥後石櫃城主。大友家とも親交を結び、豊前に出陣している。島津家の肥後侵攻軍に降るが、親大友家の子・重義と争った。のち加藤清正に仕えた。
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北里 |
政義 |
35 | 44 | 36 |
E |
34 | 26 |
足軽 | 農業 |
威圧 | 迎撃 |
- |
たかもり | これなお |
朝廷 | 保守鳩派 | 肥後 | 国人 | (1527-1586)肥後の豪族。高森城主。阿蘇家と島津家の説得を拒否し、大友家に属した。そのため島津軍が居城を攻撃、期待した大友家の援軍が無いまま戦うが、敗死した。
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高森 |
惟直 |
45 | 30 | 51 |
E |
49 | 52 |
足軽 | 商業 |
混乱 | 迎撃 |
- |
いなづ | しげまさ |
無し | 好戦直情 | 日向 | 武将 | (1574-1620)伊東家臣。清武城主。関ヶ原合戦では西軍方の宮崎城を落とす。戦後、幕命による宮崎城返還も拒否。主君・祐慶の自害命令も拒否して居城に籠城、敗死した。
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稲津 |
重政 |
12 | 55 | 8 |
E |
15 | 77 |
鉄砲 | 威圧 |
罵声 | 迎撃 |
- |