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重視 | 思考 | 出身 | 出自 |
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武将姓 | 武将名 |
政治 | 統率 | 知略 |
相性 | 義理 | 野心 | 列伝 |
兵科 | 特技 | 策戦1 |
策戦2 | 策戦3 | |
おおうら | まさのぶ |
無し | 好戦直情 | 陸奥 | 武将 | (1498-1541)南部家臣。大浦城主。わがままで家臣に信望がなかった。和徳城攻めで戦死したが、味方はその事実を知らずに退却、帰城後に初めて主君不在を知ったという。
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大浦 |
政信 |
18 | 54 | 20 |
A |
19 | 82 |
長槍 | 威圧 |
罵声 | 破壊 |
- |
おおうら | ためのり |
名声 | 保守鳩派 | 陸奥 | 武将 | (1520-1567)南部家臣。政信の嫡男。大浦城主。父の死後、家督を継ぐ。生来病弱であったという。のちに娘・戌の婿に大浦(津軽)為信を迎えて後継者とした。
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大浦 |
為則 |
61 | 35 | 53 |
A |
60 | 11 |
長槍 | 哀願 |
治療 | 誘導 |
- |
つがる | ためのぶ |
朝廷・名声 | 天下布武 | 陸奥 | 武将 | (1550-1607)弘前藩初代藩主。大浦為則の娘を娶る。主家・南部家から独立し、17年かけて津軽を統一した。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、正式に津軽の領主となった。
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津軽 |
為信 |
87 | 74 | 86 |
A |
3 | 97 |
長槍 | 農業 |
虚報 | 焙烙 |
分断 |
つがる | のぶひら |
朝廷・名声 | 好戦陰湿 | 陸奥 | 武将 | (1586-1631)弘前藩2代藩主。為信の三男。幼い頃に父の勧めで受洗した。2人の兄が幼くして世を去ったため父の死後家督を継ぐ。弘前城を築くなど、藩の基礎を固めた。
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津軽 |
信枚 |
59 | 61 | 65 |
A |
44 | 57 |
長槍 | 改修 |
威圧 | 修復 |
誘導 |
ぬまた | すけみつ |
無し | 天下布武 | 上野 | 国人 | (1539-1612)津軽家臣。上野国沼田の出身。武者修業のため全国を行脚していた際に、為信の器量を見込んで仕官、その軍師となる。為信の津軽統一に多大な功績を残した。
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沼田 |
祐光 |
70 | 50 | 74 |
A |
81 | 74 |
長槍 | 弁舌 |
混乱 | 破壊 |
突入 |
かねひら | つなのり |
名声 | 保守鳩派 | 陸奥 | 武将 | (1544-1625)津軽家臣。主君・為信の創業期を支えた大浦三老の1人。兼平家は大浦一族で、種里盛純(大浦盛信の弟)が兼平村を領した際に、地名を姓としたという。
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兼平 |
綱則 |
51 | 54 | 62 |
A |
55 | 49 |
長槍 | 商業 |
鼓舞 | 修復 |
迎撃 |
はっとり | やすなり |
無し | 好戦人情 | 伊賀 | 忍者 | (1566-1635)津軽家臣。伊賀国の出身。関ヶ原合戦の際に召し抱えられ、大垣城攻撃戦に活躍した。のちに筆頭家老となって藩政を取り仕切り「無類の良臣」と評された。
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服部 |
康成 |
63 | 72 | 50 |
A |
86 | 19 |
長槍 | 威圧 |
虚報 | 収拾 |
放火 |
まつだいら | ひでやす |
幕府 | 好戦直情 | 遠江 | 武将 | (1574-1607)徳川家康の次男。結城家の家督を継ぐ。関ヶ原合戦の際は関東に残って上杉景勝に備え、戦後、越前福井75万石を領した。激しい気性の持ち主だったという。
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松平 |
秀康 |
47 | 73 | 26 |
A |
72 | 64 |
騎馬 | 威圧 |
罵声 | 破壊 |
誘導 |
まつだいら | ただなお |
幕府 | 好戦直情 | 下総 | 武将 | (1595-1650)結城秀康の嫡男。父の死後家督を継ぐ。大坂の陣では真田幸村軍の突撃を阻止するなど活躍。のちに幾多の不行跡を起こしたため、改易され配流処分となった。
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松平 |
忠直 |
36 | 71 | 21 |
A |
53 | 78 |
騎馬 | 威圧 |
威圧 | 破壊 |
- |
ぬまた | かげよし |
無し | 好戦直情 | 上野 | 国人 | (1552-1581)上野の豪族。顕泰の子。父が異母兄・朝憲を殺して家臣に反発された際、父とともに会津に逃れる。のちに沼田城奪回の兵を挙げるが、真田昌幸に謀殺された。
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沼田 |
景義 |
5 | 55 | 53 |
A |
37 | 79 |
騎馬 | 威圧 |
罵声 | 誘導 |
放火 |
あかい | かつみつ |
無し | 好戦陰湿 | 上野 | 国人 | (1487-1541)上野の豪族。青柳城主。1536年に忍城を攻めた。赤井家は戦国初期に台頭し大袋城を築く。大袋城は1471年に太田道灌らにより攻め落とされたという。
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赤井 |
勝光 |
57 | 50 | 59 |
A |
41 | 66 |
長槍 | 改修 |
威圧 | 修復 |
分断 |
あかい | てるやす |
無し | 保守鷹派 | 上野 | 国人 | (1510-1559)上野の豪族。1555年に館林城を築き大袋城から居城を移した。館林城は白狐が尾を曳いて縄張りを行ったという伝説が残っており、別名を尾曳城という。
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赤井 |
照康 |
38 | 43 | 45 |
A |
55 | 53 |
騎馬 | 農業 |
鼓舞 | 迎撃 |
- |
あかい | てるかげ |
名声 | 保守鳩派 | 上野 | 国人 | (1533-1567)上野の豪族。館林城主。照康の子。父の死後、家督を継ぐ。上杉謙信の関東侵攻軍に従わなかったため、1562年に謙信の攻撃を受けて落城、忍城に逃れた。
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赤井 |
照景 |
27 | 23 | 34 |
A |
44 | 44 |
足軽 | 哀願 |
密偵 | - |
- |
いい | なおまさ |
朝廷 | 天下布武 | 遠江 | 武将 | (1561-1602)徳川家臣。徳川四天王の1人。軍装を赤で統一した軍兵は「赤鬼」と恐れられ、常に先鋒を争った。関ヶ原合戦では島津軍を追撃し、島津豊久を討ち取った。
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井伊 |
直政 |
73 | 81 | 65 |
A |
75 | 73 |
騎馬 | 改修 |
虚報 | 破壊 |
突入 |
いい | なおたか |
朝廷 | 天下布武 | 遠江 | 武将 | (1590-1659)徳川家臣。直政の次男。病弱だった兄・直継に代わって家督を継ぎ、近江彦根藩主となった。大坂夏の陣に参陣し、長宗我部盛親・木村重成の両軍を撃破した。
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井伊 |
直孝 |
71 | 69 | 53 |
A |
69 | 42 |
鉄砲 | 農業 |
治療 | 焙烙 |
誘導 |
まつだいら | のぶやす |
幕府 | 天下布武 | 三河 | 武将 | (1559-1579)徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。剛勇英邁の人となりで、将来を嘱望されるが、のちに信長から武田家への内通を疑われ、父の命により自害した。
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松平 |
信康 |
46 | 77 | 53 |
A |
80 | 61 |
騎馬 | 威圧 |
威圧 | 破壊 |
誘導 |
まつだいら | ただてる |
幕府 | 好戦人情 | 武蔵 | 武将 | (1592-1683)徳川家康の六男。容貌の醜さから父に疎まれて育つ。成人後は越後高田75万石を領すが、大坂夏の陣への遅参が豊臣家への内通疑惑を招き、戦後改易された。
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松平 |
忠輝 |
7 | 72 | 63 |
A |
76 | 71 |
騎馬 | 商業 |
威圧 | 治療 |
破壊 |
さかい | ただつぐ |
幕府 | 天下布武 | 三河 | 武将 | (1527-1596)徳川家臣。徳川四天王の筆頭。主君・家康の養育係を務めた。家康の成人後は東三河衆を率いて各地を転戦し活躍する。その器量は豊臣秀吉にも称賛された。
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酒井 |
忠次 |
65 | 75 | 57 |
A |
69 | 67 |
騎馬 | 農業 |
治療 | 挑発 |
迎撃 |
ほんだ | ただかつ |
幕府 | 天下布武 | 三河 | 武将 | (1548-1610)徳川家臣。徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と評された家中随一の猛将。名槍・蜻蛉切を手に57度の合戦に参陣し、傷一つ負わなかったという。
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本多 |
忠勝 |
54 | 84 | 66 |
A |
94 | 62 |
長槍 | 改修 |
虚報 | 挑発 |
突入 |
ほんだ | ただまさ |
幕府・名声 | 保守鳩派 | 三河 | 武将 | (1575-1631)徳川家臣。忠勝の嫡男。小田原征伐や関ヶ原合戦、大坂の陣などに従軍し、播磨姫路15万石を領した。嫡男・忠刻は豊臣秀頼と死別した千と結婚している。
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本多 |
忠政 |
55 | 44 | 52 |
A |
73 | 25 |
長槍 | 哀願 |
鼓舞 | 誘導 |
- |