『信長の野望 嵐世記』武将総覧

火間虫入道 > 『信長の野望の変遷』

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武将姓 武将名 出身・出自登場年 (誕生年-死亡年)
特技政治采配智謀 野望義理相性 列伝
あさくら のりかげ 通常版 越前若狭 1492 (1477-1555)朝倉家臣。朝倉家初代当主・敏景の子。軍奉行を務め、周辺諸国へ出兵し朝倉家の武威を内外に知らしめた。加賀一向一揆討伐の際に発病、帰国後に死去した。
朝倉小太郎教景 武将騎馬
[訓練] [登用] [回復] [突撃]  8010096 7290 51
かわい よしむね 通常版 越前若狭 1536 (1521-1573)朝倉家臣。一乗谷四奉行の1人として国政に参画したほか、浅井家救援のために近江に出陣した。刀禰坂合戦に従軍し、織田信長軍と戦って戦死したといわれる。
河合五郎兵衛吉統 武将
[回復]  631844 1275 51
ほんがんじ れんじゅん 通常版 加賀能登 1479 (1464-1550)本願寺8世法主・蓮如の十三男。大津顕証寺を経て、門徒の要望により河内顕証寺の住職となる。伊勢長島に願証寺を建立するなど、本願寺の発展に貢献した。
本願寺兼誉蓮淳 一向宗
[商業] [激励]  957582 8075 51
ほんがんじ しょうけい 通常版 摂津河内 1509 (1494-1574)蓮淳の孫。伊勢長島願証寺の住職を務めた。一向宗門徒を率いて織田信長の討伐軍に激しく抵抗するが、信長の焦土化作戦の前に敗北し、木曽川に身を投げた。
本願寺 証恵 一向宗鉄砲
[登用] [雨撃]  735952 1170 51
しもづま ちゅうこう 通常版 加賀能登 1566 (1551-1616)本願寺の坊官。頼照の子という。石山合戦で活躍した。織田信長と本願寺の和議に際しては、法主・顕如に代わって血判した。能楽に長じ「童舞抄」を著した。
下間 仲孝 一向宗荷駄
[外交] [三段]  585073 2880 51
くぼた つねただ 通常版 加賀能登 1526 (1511-1570)加賀の豪族。安吉城主。大炊介を称す。はじめ安吉家長に仕えたが、1550年に家長から安吉城を譲られ、城主となった。加賀一向一揆軍の頭領を務めた。
窪田 経忠 一向宗
[連射]  145250 4880 51
しちり よりちか 通常版 加賀能登 1532 (1517-1576)加賀の本願寺の代官。一向宗門徒の要請により富田長繁を討つが、翌年、織田信長の討伐軍に降る。のち法主・顕如の命によって松任城主・鏑木頼信を討った。
七里 頼周 一向宗
[三段] [攻城]  465350 6065 51
すずき しげやす 通常版 摂津河内 1556 (1541-1580)紀州雑賀の鈴木家の一族という。本願寺から加賀に派遣され、鳥越城を築いて加賀の一向宗門徒を指導した。のちに柴田勝家に討たれ、首級は安土に送られた。
鈴木 重泰 一向宗鉄砲
[雨撃]  105225 5385 51
はっとり ともさだ 通常版 伊勢志摩 1530 (1515-1574)伊勢の豪族。鯏浦砦を本拠とし、伊勢長島願証寺と結んで織田信長に抵抗した。のち、斎藤龍興ら信長に敗れた多くの武将が服部党に身を投じて信長と戦った。
服部 友貞 一向宗
[守戦] [三段]  105737 5285 51
みよし まさやす 通常版 摂津河内 1543 (1528-1615)三好家臣。三好三人衆の1人。松永久秀とともに将軍・足利義輝を殺害した。織田信長の畿内平定軍に敗れ、逃亡。のち豊臣家に仕え、大坂夏の陣で戦死した。
三好 政康 武将鉄砲
[登用] [茶湯]  405641 7440 51
みよし ながゆき 通常版 摂津河内 1529 (1514-1573)三好家臣。三好三人衆の筆頭。主君・義継や松永久秀らと離合集散を繰り返し、家中に混乱を招く。のち織田信長の畿内平定軍に敗れ逃亡、行方不明となった。
三好孫四郎長逸 武将
[引抜] [攻城]  535557 7065 51
いわなり ともみち 通常版 摂津河内 1544 (1529-1573)三好家臣。三好三人衆の1人。三好家一族同様の扱いを受けた。将軍・足利義昭の挙兵に応じ、山城淀城に籠城するが、細川藤孝らの軍に攻められ、敗死した。
岩成 友通 武将
[逃亡] [雨撃]  304142 6150 51
つだ しげひさ 通常版 摂津河内 1564 (1549-1634)細川家臣。主家滅亡後は、三好・足利将軍家などを経て明智光秀に仕え、山崎合戦に従軍した。光秀の死後は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳合戦などに従軍した。
津田与三郎重久 武将鉄砲
[検地]  253130 5655 51
すがわら きゅうえもん 諸勢力 羽後 1563 (1548-1630)秋田の商人。秋田は秋田港を擁する港町として栄えた。秋田港は日本最古の船法度「廻船式目」に「三津七湊」の1つとして挙げられ、安東家が代々支配した。
菅原 久右衛門 都市
[商業] [茶湯]  534155 4970 51
ふかや げきのすけ 諸勢力 武蔵 1537 (1522-1619)品川の商人。深谷家は実際は常陸佐竹家に仕えた御用商人。領内の商業発展のために尽力し、主家の転封に伴って秋田に移住した。品川は港町としても栄えた。
深谷 外記助 都市騎馬
[商業] [茶湯]  515460 4080 51
かすや げんざぶろう 諸勢力 武蔵 1571 (1556-1618)品川の商人。品川は品川港を擁する港町として発展した。江戸時代には東海道五十三次の一番目の宿場町となり、宿内の家々1千6百軒、人口7千人という。
糟屋 源三郎 都市騎馬
[商業] [茶湯]  393952 4260 51
まんじゅうや そうじ 諸勢力 山城 1563 (1548-1631)京都の商人。宗二は実際は奈良の商人・経学者・和学者。学を好み、経書・和歌や連歌など多くの学問を学んだ。「源氏物語林逸抄」など多くの著書がある。
饅頭屋 宗二 都市騎馬
[商業] [茶湯]  465440 5280 51
こうの まさみち 諸勢力 1554 (1539-1632)箱館水軍の武将。政通は実際は蝦夷の豪族で1454年に渡道し、館を築いて居館とした。「箱館」の地名の由来は、築かれた館が箱形だったことに由来する。
河野 政通 水軍衆荷駄
[貿易]  564558 5280 51
くたみ あきやす 諸勢力 豊後 1582 (1567-1636)豊後の国人。鑑康は実際は大友家臣。加判衆を務め、菊池義武を討つなど各地で活躍した。しかし、のちに島津家の豊後侵攻軍に降り、島津軍を豊後に導いた。
朽網 鑑康 国人衆
[外交] [治水]  433236 4235 51

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