武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
るす | まさかげ |
守護 | 神仏 | 59 |
(1549-1607)留守家18代当主。伊達晴宗の三男。留守顕宗の娘を娶り家督を継ぐ。兄・輝宗や甥・政宗に従い、相馬家や最上家などと戦った。のちに伊達姓に復した。
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留守 |
政景 |
54 | 58 | 49 |
54 | 57 |
68 |
通常版 | 1564 |
斉射・1 |
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こくぶん | もりしげ |
守護 | 神仏 | 63 |
(1553-1615)伊達家臣。伊達晴宗の十男。国分家を継ぐ。1599年、病と称して岩出山城に出仕せず、叛意を疑われたため出奔。姉の嫁ぎ先である佐竹家に身を寄せた。
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国分 |
盛重 |
28 | 17 | 12 |
28 | 14 |
68 |
通常版 | 1568 |
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かわむら | しげよし |
武士 | 神仏 | 74 |
(1575-1648)伊達家臣。算術、水利に精通し、北上川の改修工事をはじめとして数々の土木事業を担当する。実質200万石といわれた仙台藩の経済基盤の礎を作り上げた。
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川村 |
重吉 |
81 | 1 | 15 |
63 | 57 |
68 |
通常版 | 1590 |
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はら | たねひで |
武士 | 神仏 | 54 |
(1537-1590)千葉家臣。胤貞の子。利胤・親胤2代に執権として仕えた。主家と同等の勢力を有していたという。のちに主家とともに北条家に従属、臼井衆の筆頭となった。
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原 |
胤栄 |
51 | 45 | 47 |
45 | 36 |
68 |
通常版 | 1552 |
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おくだいら | さだよし |
国人 | 神仏 | 62 |
(1537-1598)今川家臣。桶狭間合戦後、徳川家に仕える。掛川城攻めや姉川合戦に従軍した。一時武田信玄に属すが、信玄の死後は徳川家に帰参し、長篠合戦で活躍した。
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奥平 |
貞能 |
43 | 37 | 44 |
45 | 40 |
68 |
通常版 | 1552 |
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おくだいら | のぶまさ |
国人 | 神仏 | 61 |
(1555-1615)徳川家臣。貞能の子。一時武田信玄に属すが、信玄の死後、帰参。長篠合戦では長篠城を死守し勝利に大きく貢献した。その功により、家康の娘・亀を娶った。
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奥平 |
信昌 |
19 | 60 | 67 |
40 | 52 |
68 |
通常版 | 1570 |
槍衾・1 |
収拾 |
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みよし | かずもり |
国人 | 神仏 | 69 |
(1547-1615)畠山家臣。池田城主。上杉謙信の能登侵攻軍に降る。謙信の死後は佐々成政に属し、成政の肥後移封にも従った。成政の死後は能登羽咋郡に移住し、隠棲した。
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三善 |
一守 |
29 | 42 | 38 |
42 | 32 |
68 |
通常版 | 1562 |
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いっしき | よしゆき |
守護 | 神仏 | 55 |
(1509-1563)丹後の戦国大名。隣国の若狭武田家としばしば戦った。一色家は清和源氏足利家一門で、山名・赤松・京極家とともに四職の家格となり、幕府で重きをなした。
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一色 |
義幸 |
42 | 45 | 33 |
56 | 47 |
68 |
通常版 | 1524 |
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きい | まさふさ |
武士 | 神仏 | 84 |
(1478-1561)城井宇都宮家14代当主。大内家に仕える。少弐・大友家と結んで主家に対抗するが、一族の佐田俊景の攻撃を受けて敗北し降伏、以後は再び大内家に従った。
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城井 |
正房 |
62 | 38 | 53 |
54 | 46 |
68 |
通常版 | 1493 |
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かまち | あきもり |
武士 | 神仏 | 59 |
(1520-1578)筑後の豪族。柳河城主。鑑久の嫡男。大友家に属した。滅亡の危機に瀕した龍造寺家を2度に渡って保護した。耳川合戦に参陣し、一族郎党とともに戦死した。
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蒲池 |
鑑盛 |
63 | 62 | 63 |
63 | 97 |
68 |
通常版 | 1535 |
槍衾・1 |
鼓舞 |
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かまち | しげなみ |
武士 | 神仏 | 35 |
(1547-1581)筑後の豪族。柳河城主。鑑盛の嫡男。父の死後家督を継ぐ。龍造寺隆信の筑後経略に協力するが、のちに対立。隆信の居城・肥前佐賀城に呼び出され殺された。
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蒲池 |
鎮漣 |
55 | 54 | 41 |
55 | 82 |
68 |
通常版 | 1562 |
槍衾・1 |
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