(1529-1578)畠山家臣。年寄衆を務めた。
主君・義綱が能登を追放された際、これに従う。
義綱の能登入国作戦の中枢を担い、軍勢を指揮して善戦したが、失敗に終わった。
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真田信吉 真田信政 鈴木忠重 大道寺繁久 小笠原忠真 小笠原忠知 諏訪頼水 上杉定勝 屋代忠正 長連頼
北陸東山の二世武将です
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正式名:畑太郎右衛門安高
金森氏の飛騨攻めに際、松倉城に篭城し迎え撃った。
秀綱と元綱に従い、金森長近の軍を何度か撃退するも、
金森家臣、山蔵宗次との激しい一騎打ちの末、討ち死。
勇将の死により軍の士気が低下した中、家臣の藤瀬新蔵という者が、三木家を裏切り城の中に火をつけ三木家は総崩れとなり滅亡。
新田義貞系畑氏の子孫ともいわれる。
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武田軍目付。三増峠の戦いでは退却中の殿浅利信種が戦死して浮き足だった軍を、よくまとめて戦った。
駿河の今川氏真を攻めたでは、真田昌幸らと共に活躍し、信玄から「昌世と昌幸は我が両眼の如し」と賞賛されている
信玄期の侍大将。陣形やその陣を敷くための場所を決定したり、戦況報告を行なう陣馬奉行を務め、信玄も、陣馬の見立ては昌胤の進言どおりにするなど、信玄から絶大な信任を受けて、「人馬の見立ては隼人佑に任せておけばいい」と信玄から言われるほどだったという。
甲陽五名臣の一人。。信虎配下の足軽大将として甲斐国統一戦や今川氏、後北条氏との戦いで活躍し、
『鬼虎』と称された。
また、生涯で36回の合戦に参加して貰った感状も36枚、41ヶ所の傷を受けた歴戦の剛将である。
信玄の父武田信虎の代からの親類老臣。
飯富虎昌などと並び賞賛され、第四回川中島の戦いで、上杉軍の猛攻を受けて討ち死にした。
その時すでに80歳を越えていたと言う
第四回川中島の戦いが初陣であり、上杉軍の攻撃が本陣にまで到達した際に信玄の側で奮戦したという。
また、三方ヶ原の戦いでは徳川家の勇将・鳥居信之と一騎打ちで首級をあげ、剛将として知られる反面、竜朱印奏者でもあり行政官としての一面もあたという。
今川攻めの際には一番槍の勲功を上げ、三方ヶ原の合戦でも部隊長の山県昌景 からその戦いぶりを称えられるほどに奮戦し、名刀 「吉光」 を与えられた。
兄信玄に従って、諏訪攻めや伊奈攻め、村上義清の合戦、川中島の合戦などに参戦し本願寺等畿内勢力との外交を担当した。
また「伊達者にして花麗を好む性質なり」と言われている。
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