甲府石田に所領があったことから「石田小山田」と呼ばれ、城に関するプロフェッショナルとして、攻城戦、築城、籠城戦に活躍し、板垣信方の副将として信濃国佐久地方へ侵攻し、活躍した。
信玄の代に確立された武田氏の政治機構では板垣
信方とともに最高機関の「職」を務め、信玄の補佐の任に当たった譜代の老臣。
軍略家としての虎泰の働きは抜群で、「虎泰は猛将萩原常陸に劣らぬ剛の者にて」と山本勘助も虎泰の見事な采配ぶりを感嘆している。
信虎、信玄の二代に渡り武田の重鎮として活躍した譜代の老臣。
少年時代の信玄の養育にあたり、武田の後継者である信玄の部将教育に尽くした。若き信玄が文学に熱中し過ぎた事で、信方が死を賭して諌めたと言うエピソードは有名である。
また合戦上手として信玄に信頼され、信州攻略では常に陣頭にあって、また、武田の政治機構の最高機関「職」を甘利氏とともに務め、信玄の領国治世の輔弼の任にあたった
三段崎 為之(みたざき ためゆき ????〜1573)
朝倉家臣で、通称・勘右衛門。強弓を使いこなす豪傑として名を轟かせていたが、1573年の刀根坂の戦いにて織田家臣・山内一豊と死闘を演じ、討ち死にした。
2005年NHK大河ドラマ「功名が辻」で、主人公・山内一豊の敵役として登場。一豊は三段崎に頬を矢で撃たれ重傷を負うが、何とか討ち取った。その頬の傷跡は、最終回で一豊が土佐で死ぬまでついたままだった。
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明智 元親
2007/01/07/13:19:23
No.71
評価★
>2005年NHK大河ドラマ「功名が辻」
2006年の間違いですOrz
明智 元親
2007/01/07/13:25:44
No.73
評価★★★
史実では討ち死の武将なので、寿命は少し増やして設定してあります。
能登国守護。
五代守護慶致の子。四代・六代守護義元の養嗣子となり、義元死後七代守護となる。
将軍の御伴衆であった父慶致の帰国後、後を襲って義植の御伴衆となり、能登の内乱の終息に尽力したことにより、叔父義元の後継者となった。
京生まれの生粋の京都人であり、京極為和を能登に招いて古今伝授を受けるなど、戦国期屈指の文人大名であった。
真田昌輝(1543-1575)
武田家臣。真田幸隆の次男、兵部丞。長篠の戦では
兄・信綱とともに敵陣へ切り込み鉄砲に撃たれ戦死 した。
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溝江長氏(1550-1610)
朝倉家臣。朝倉家滅亡後は、羽柴秀吉に仕える。
文官として活躍し、最期は故郷にて大名としての厚遇を得る。
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真柄直澄(????-1570)
真柄直隆の弟。大力無双の士で、五尺三寸の大刀を縦横無尽に振り回して活躍。
姉川の合戦でも猛勇を見せるが、徳川家中の勾坂式部に討ち取られた。
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元々は伊勢の出身で、甲陽五名臣の一人。
若き信玄を支え、数々の手柄を立てた。
味方が総崩れになった「砥石崩れ」では殿
を務め、信玄を逃がした後、戦死した。
史実どおりに死なすと、一瞬にして死んでしまうので、かなり長生きにしてみました。
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(????〜????) 神保長職の長子。上杉家と結ぼうとする父や 小島職鎮と対立。
追放されて京都で放浪生活を送ったのち、織田信長に属す。
越中の経略に従事するが、小島職鎮らに襲われて、越中富山城に幽閉され失脚した。
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