[信長の野望 烈風伝小ネタ]-仕官拒否メッセージ-

[烈風伝小ネタ]-仕官拒否メッセージ(1)-
『信長の野望 烈風伝』では特定の武将が大名になった場合、
職業を取得していない・もしくは水軍適正が低い浪人を登用する際に、
特殊なメッセージで断られることがある。

こういう細かいこだわりが『信長の野望シリーズ』の人気の一因だと思うのですが、
最近のシリーズには無いですね。残念。

本日紹介する一人目の武将は 今川氏真
「今川氏真殿といえば
 武芸より蹴鞠のほうがお好きだとか
 さようなお方に仕える気はありません」

なんていわれているこの人は名門今川家を潰したことで、評価が低い
『信長の野望シリーズ』での能力値は「教養」以外ダメダメに設定されている。
楽市令や治水工事、検地等の内政面での実績を見込まれてか、
「覇王伝」〜「烈風伝」では内政向けに設定されている(というか内政しか出来ない)

同盟を破棄した武田信玄 に対し、塩の供給停止措置という経済制裁を行っているが、
上杉謙信ちゃっかりと慈悲深くも塩の流通を奨励したため失敗。
成功すれば智謀も高めになっていたかもしれない。

和歌と蹴鞠に傾倒し作った歌は1,700首。
さらには自分の父を討った信長の前で蹴鞠の技を披露している。

[おまけ:あんたがいうか?]
金森長近:茶と蹴鞠に造詣が深い。


[烈風伝小ネタ]-仕官拒否メッセージ(2)-
特殊な仕官拒否メッセージ二人目は キリシタン大名・大友宗麟
(1530-1587年)大友家21代当主で本名は義鎮。
毛利氏の九州侵攻を防ぎつつ、豊後・肥前・肥後・豊前・筑前・肥前の守護職と九州探題を任ぜられた大大名。
キリスト教を保護し、南蛮貿易を奨励し強大な経済力を得るが、家中で宗教的対立が発生したため入道し、宗麟と号した。
晩年に洗礼を受けドン=フランシスコと称し、キリスト教の理想郷を建設するために日向に出陣。
6万の軍勢と南蛮貿易で得た大砲も備えていたが、耳川で島津軍に大敗。
大友家は衰退の一途をたどり、豊臣秀吉 に救援を要請し、九州征伐により豊後一国を安堵された。

キリシタンであったが大の漁色家で家臣の妻一万田氏や服部氏の妻を取り上げて叛乱を起こされたりしている。
『烈風伝』で大友宗麟でプレイしている時に、
「大友宗麟殿といえば
 家臣の妻を強奪したお方と聞く
 さようなお方に仕える気はありません」

といって断られるのということは他に家臣の妻を強奪までする人はいなかったということか。

[おまけ:家臣じゃなく主君から女を奪った人たち]
斎藤道三:主君・土岐頼芸の側室・深芳野を頂く。
斎藤道三
主君・土岐頼芸の側室・深芳野に目をつけ、賭けをして手に入れる。
その時すでに深芳野は義龍 を身篭っており頼芸の子か道三の子かでひと悶着が起こり、
道三の身を滅ぼすことにもなった。
三好義賢:阿波守護・細川持隆を殺し、側室・小少将を妻とする。
三好義賢
主であった阿波守護・細川持隆を殺害。側室・小少将を妻とし、 長治存保をもうけた。
義賢戦死後、小少将は篠原自遁の妻となる。
さらに自遁も戦死した後には 長宗我部元親の側室となって土佐へ渡ったといわれている。
鳥居元忠:徳川家康が側室にしようと目を付けていた馬場美濃守信春の娘を欺いて妻とする。
鳥居元忠
武田家の勇将・馬場美濃守信房 の娘を家康が側室にしようと元忠に捜索を命じるが、
自分の側室にしてしまい、家康には「発見できなかった」と報告。
のちに家康の知るところになり「彦右衛門は、年若い頃から何事にも抜け目の無い男よ」と
笑い飛ばされている。


[烈風伝小ネタ]-仕官拒否メッセージ(3)-
特殊な仕官拒否メッセージ三人目は 信長の野望シリーズの曹豹・一条兼定
一条家は摂関家の分家で、応仁の乱から逃れるため土佐へ下向してきた。
曽祖父・一条房家は荘園領地の回復に努め、土佐半国を治める戦国大名へと転身。
中村に居城を構え、街路を碁盤目に通し「土佐の小京都」と呼ばれる町並みを作り上げた。
本山氏に滅亡させられた 長宗我部家の子・国親を保護し、 再興させるがそれが仇となる。
国親の子・元親の台頭に対処することなく 放蕩な生活を続け、それを咎めた重臣・土居宗珊を殺してしまう。
このことで家臣団からの人望をすっかり失い隠居に追い込まれてしまった。

『烈風伝』では通常版、パワーアップキット版共に一条家が大名として扱われたシナリオは無く、
「一条兼定殿といえば酒と
 おなごにしか興味を示さないと聞く
 そのようなお方に仕える気はありません」

という仕官拒否メッセージを見た方って「縁組」や「養子」コマンド、
もしくはパワーアップキット版の「新大名プレイモード」で設定した
一条家愛好者かマゾプレイヤーチャレンジャブルな人でしょうな。

ちなみに母は大友義鑑の娘で 昨日紹介した大友宗麟の姉。 妻は大友宗麟の娘。
女好きは大友家からの遺伝か・・・

土佐追放後はこの大友宗麟を頼り、豊後へ渡り、キリシタンとなり「パウロ」という洗礼名を授かる。
宗麟の支援を受け、失地回復を目論むが土佐四万十川で長宗我部軍に大敗、
長宗我部家の刺客のより受けた傷がもとで42歳で亡くなったといわれる。

[おまけ:似たもの同士なのにね]
大友宗麟:家臣の妻を取り上げて叛乱を起こされる。
大友宗麟 :詳細は上記参照のこと。


[烈風伝小ネタ]-仕官拒否メッセージ(4)-
特殊な仕官拒否メッセージ4人目は 下克上の代表的人物・斎藤道三
出自は藤原氏系の松波氏で、代々北面の武士を務めていたが朝廷の窮乏により父基宗の代に浪人となった。
僧侶として京都妙覚寺で修行をするが、還俗して油商人の奈良屋へ入り婿する。
その後美濃守護・土岐家の家老の長井長弘の口添えで、守護・土岐盛頼の弟・頼芸の家臣となる。
頼芸をそそのかして盛頼を追い出すよう画策。長井長弘を讒言により謀殺し、長井家の名跡を継ぐ。
つづいて守護代・斎藤氏の名跡を継ぐと、用済みになった主君・頼芸を追放し美濃守護になる。

「斎藤道三殿といえばマムシと
 あだ名されるほど非情な方と聞く
 そのようなお方に仕える気はありません」

蝮は卵を産ない胎生。親と同じぐらいの大きさに育ってから口から出てくる。
主を滅ぼしてその度に名を変える様が「親の腹を喰い裂いて出てくる」という
一般的なイメージに当てはめられたのだろう。

近年、 六角承禎斎藤義龍との縁組みを止めさせるように命じた「六角承禎条書」という文書が発見され、
「国盗りは道三が一代で成しとげたのではなく、父・新左衛門尉とともに二代で達成したもの」という記述により。
親子2代による美濃乗っ取り説が主流となりつつある。

[おまけ:もうひとりの梟雄]
松永久秀:主家を簒奪し、将軍・足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた稀代の梟雄。
松永久秀
斎藤道三以上に前半生が不明。山城西ケ岡の商人で、斎藤道三と旧知だという話もある。
三好元長に仕官し、その子・長慶 に重用されて勢力を強め、主家の三好家の弱体化を進めていく。
長慶の弟・義賢を長慶に讒訴して兄弟の亀裂を深め、 同僚の伊勢氏を滅亡させる。
さらに長慶の嫡子・義興を毒殺し、 精神的に弱っている長慶に弟の安宅冬康を讒言して暗殺させた。

そして最後に長慶自身が悲嘆のうちに世を去ると三好三人衆 と結んで将軍・足利義輝を暗殺し、
次はその三好三人衆との抗争で奈良の大仏殿を焼き払う。
キリスト教の宣教師を京都から追放したりもして、まさに「神を恐れない男」である。
自らを神を称する信長を鼻で笑っていたに違いない。


[烈風伝小ネタ]-仕官拒否メッセージ(5)-
特殊な仕官拒否メッセージ5人目は 人たらし・豊臣秀吉
低い身分から身を起こし日本史上最も出世した人物。

「豊臣秀吉殿といえば氏素性の
 わからぬ成り上がり者と聞く
 そのようなお方に仕える気はありません」


と言われるとおり、生年不詳。尾張国愛知郡中村の百姓弥右衛門の子といわれる。
弥右衛門は織田信秀の鉄砲足軽を務めたといわれるが、その当時の織田家に鉄砲隊が存在したか怪しい、
実際にはただの百姓であったかもしれない。
弥右衛門をなくし、母・なかと再婚した義父・竹阿弥とは折り合いが悪かったため、家を出、行商をして渡り歩く。
その後、今川家臣・松下加兵衛之綱に仕えた後、尾張に戻り織田家の末席に加わる。

以後、墨俣築城や美濃三人衆の調略、割普請といった活躍を信長に認められて出世していくことになるが、
上記のように織田家に仕える前まで、実際に何をやっていたかはっきりしない。
それ故、小説家の創作意欲を刺激するのか、出自が忍者だったりワタリ、山窩と呼ばれる漂泊の民だったりするのもある。

家を重んじる当時の武士にはそういった出自を持つ人を受け入れ難かったのも知れない。

[おまけ:氏素性の知れない人]
石川五右衛門:戦国期の盗賊。京都所司代・前田玄以に捕えられ、一族共々釜煮の刑に処せられた。
石川五右衛門
戦国時代に京都を荒らしまわった盗賊。
一説によると三好氏の家臣である石川明石の子、もしくは遠江浜松出身でもとは真田八郎と名乗り、
河内国石川郡に身を寄せて石川五右衛門を名乗ったと言われている。
『信長の野望シリーズ』では(と言っても「将星録」と「烈風伝」にしか登場していない)伊賀出身の忍者。
歌舞伎や講談等で巷間に流布する話を基にしたと思われる。
真田十勇士の霧隠才蔵の兄弟分とか、 百地三太夫の妻と金を奪ったと言う話もある。


[烈風伝小ネタ]-仕官拒否メッセージ(6)-
特殊な仕官拒否メッセージ最後は 「尾張の大うつけ」織田信長

「織田信長殿といえば奇矯な
 振る舞いの目立つうつけ者と聞く
 そのようなお方に仕える気はありません」


どのくらい奇矯かというと、
髪を緋・萌黄・緑といった派手な紐の茶筅髷に結び、
襤褸襤褸な袖なしの浴衣、袴は虎と豹の皮の接ぎ合わせ、腰に瓢箪、
朱塗りの太刀は地面に引き摺るほど長く、先に小さな車輪を付けていた。
そんな格好で人に寄りかかって餅や瓜をかじりながら街中を歩いていたといわれている。

父・信秀 没後に家督を継いだ後も行状は改まず、 傅役の平手政秀に死をもって諫言される。
後に斎藤道三と会見する善徳寺に向かう際には チンコを染め抜いた衣装だったというから、
うつけには常識的な説得は通じないということだろう。

[おまけ:異風の姿形を好み異様な振舞いで人を驚かす傾奇者]
前田慶次:前田利家の兄・利久の養子。利家が前田家を継ぐと、浪人となり、穀蔵院忽之斎と称して上杉家に仕えた。
前田慶次
滝川一益の甥益重の子で、 前田利家の兄利久の養子。
はじめ織田信長に仕え、のちに前田家に仕えるが、自ら浪人となり穀蔵院忽之斎と称して 上杉景勝に仕えた。
歌道、連歌、茶湯、舞踊、古典に長じた教養人で、武芸百般にも通じる一方で奇行でも知られていた。
[参考Link]「傾奇御免」>>前田慶次郎に関する逸話等、情報が充実

「戦国無双」では強ぇニイチャンといった感じだが、
「烈風伝」では徳川家康(松平元康)や服部半蔵より年上という設定だったりする。

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