『信長の野望 革新』信長の野望革新 小ネタ
名声値 | 「民忠」上昇量 | ||
0 | 〜 | 49 | +1 |
50 | 〜 | 99 | +2 |
100 | 〜 | 219 | +3 |
220 | 〜 | 339 | +4 |
340 | 〜 | 459 | +5 |
460 | 〜 | 579 | +6 |
580 | 〜 | 699 | +7 |
700 | 〜 | 819 | +8 |
820 | 〜 | 939 | +9 |
940 | 〜 | +10 |
交渉時における行動の目安にどうぞ。
民忠:(拠点情報)
民の忠誠度。季節ごとに増え、「募兵」すると10減る。
70未満になると一揆が自然に起こることがある。
名声:(勢力情報)
名声が高いほど、武将の登用や、他勢力との外交が有利になる。
また、毎月の民忠の上昇量が大きくなる。
・町並を建設する。(+??)
・他勢力の拠点を攻略する。(+??)
・他勢力から申し込まれた同盟や停戦などを無条件で承諾する。(+10)
・他勢力からの要請に応じて援軍を派遣する。
・他勢力より先に新技術を獲得する。(+10)
・捕虜を解放する。(+10)
・包囲網に参加して貢献する。(+??)
信長の野望 革新攻略wikiさんにて一部の武将に設定されている
死亡時、処断時のメッセージを公開されております。
>『信長の野望 革新』処断時や死亡時の台詞
有名どころの武将だけに設定されているものと思ってましたが、
波多野秀治や大内義長といった微妙な所までフォローしているのはお見事。
現在、リンク先には掲載されていませんが、
平塚為広も「辞世の句」が設定されております。
名のために捨つる命は惜しからじ……
ついにはとまらぬ浮世と思へば……
<列伝> 豊臣秀吉の馬廻りとして出仕し、美濃垂井12000石を受ける。
関ヶ原合戦において大谷吉継の使者として石田三成を訪れ
挙兵を諌めるも容れられず吉継とともに西軍に従軍。
9月15日は小早川秀秋の動静を監視、秀秋が裏切ったため防戦したが、
脇坂安治らに側背を衝かれて戦死。
一説には前日、戸田勝成と共に秀秋を訪ね殺害を図っていたという。
『信長の野望 天翔記』以降のシリーズに登場。
関ヶ原の合戦では病身の大谷吉継に代わって軍を指揮して奮戦したということで、
戦闘値はそこそこに設定されている。(あくまでもそこそこ)
関ヶ原で華々しく散ったという以外はあまり知られていない武将であり、
「武将ファイル」シリーズでも大きく取り上げられたこともなし。
(『嵐世記武将FILE』でシリーズ中最大の4分の1ページ使われているのみ)
わざわざ、特殊メッセージを用意している辺り製作者にこだわりがあったのだろうか?
他にもまだ上記サイトのリストに掲載されていない人物が少なくとも3名はいるので、
探してみてはいかがでしょうか。(寿命待ちは大変なので処断がお勧め。しかし・・・・)
「寿命」による死亡時
(没年は宮本武蔵
と佐々木小次郎
が巌流島で決闘した1612年)
生きるだけ生きたならば 死ぬることもあろうて・・・・・・
まったく、面白い世の中であったわ・・・・・・
「処断」による死亡時
(「松風」を没収しておかないと捕縛できないので注意)
生きるまでいきたならば 死ぬることもあろう・・・・・・
ふむ、これが死・・・・・・か・・・・・・
どうにも『寄生獣』(岩明均)に登場する「ミギー」の台詞を連想してしまう。
他にも元ネタがあるんだろうけど。
み菩薩の種を植えけん、この寺へ
みどりの松の一あらぬ限りは・・・・・・
備前の梟雄と呼ばれた宇喜多直家の嫡子で、10歳の頃に父直家を喪い、
羽柴秀吉の養子となり秀の字を授かる。
秀吉から寵愛され、秀吉の養女(前田利家の娘)豪姫を妻に与えられたり、
豊臣政権内での五大老の地位を与えられるなど厚遇された。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは西軍の主力として徳川家康の東軍と戦うが、
小早川秀秋の裏切りにより敗走。
同じ西軍に属した島津家に匿われた。
その後、
島津義弘・前田利長の助命嘆願により死一等を減じられ、
駿河での蟄居、さらに八丈島へ流刑となった。
それから50年余、1655年84歳で没。
その頃には徳川家康はもとより、徳川秀忠も
3代将軍・家光も亡くなっている。
『信長の野望 革新』でも、秀家より後に死ぬように設定されているのは10人しかいない
ってくらいに遅く死ぬので、末期の台詞を手っ取り早く見たい人は捕縛して処断しましょう。
さらぬだに、うちぬる程も夏の夜の
別れを誘う、ほととぎすかな
織田信秀の娘で、信長の異母妹。
織田・浅井同盟に際し信長の命により浅井長政に嫁ぎ二男三女を産んだ。
浅井氏滅亡後は3人の娘と共に織田家に戻り、信長が本能寺の変に倒れた後は、
柴田勝家と再婚。
しかしながら、勝家も賤ヶ岳の合戦で羽柴秀吉に敗れ、
最期は北ノ庄城で勝家と共に自害。
3人の娘は北ノ庄落城前に秀吉に保護され、
長女・茶々は秀吉の側室となり後の豊臣秀頼を生み、
次女・初は京極高次に嫁いだ。
三女・江は徳川秀忠の正室となり、
徳川3代将軍・家光を産んだ。
戦国時代における悲劇のヒロインの代表格。
見方によっては所持した勢力は必ず滅ぶ呪のアイテム。
兄・信長は小説やマンガでダークサイドに属することは多いが、
市姫は信長と敵対することはあっても悪役的なポジションに就くことは稀。
『人狼草紙』(楠桂)はちょっと違うし、
『SENGOKU』(山科けいすけ)で描かれる
市姫の悪女っぷり爆笑モノのギャグであるし・・・・
今回紹介するのは、切支丹の教えに殉じた「謀反人の娘」・明智玉子(細川ガラシャ)です。
散りぬべき、時知りてこそ世の中の
花も花なれ、人も人なれ……
明智光秀の娘、信長の仲介により細川忠興に嫁いだ。
本能寺の変後、謀反人の子であったため離縁され丹後国味土野へ幽閉されるが、
1584年に秀吉の仲介で復縁された。
その後、玉子は熱心なキリシタンとなりガラシャという洗礼名を受けた。
夫・忠興は信仰の放棄を迫ったが、彼女は信仰を捨てず、子供らも受洗させた。
関ヶ原合戦の際、諸侯が徳川家康に付いて会津征伐へ向かう隙に、
石田三成は彼らの妻子を人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶。
三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、家臣の小笠原少斎を呼び、
襖越しに(忠興の家臣であっても、ガラシャを見ることを禁じられていた)
槍で自分を突かせ(カトリックの戒律で自害は禁止されていた)
さらに自分の死骸を見られないように屋敷に火を放たせた。
今晩のNHK大河ドラマ「功名が辻」で、その最期のシーンが放送される模様。
先日「その時歴史が動いた」で細川ガラシャの生涯が放映されたのも、
これにあわせてのことでしょうな。もちろん今回の更新も。
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