| ▼ すくも様
誠に以って礼を失うとは存知ますが、一筆取らせて頂きます。
数年前の朝日新聞に最上義守の書状が見つかり、地方面をにぎわかせた事がありました。
その文面は義光への家督相続に不満を抱く義守が伊達輝宗に「力を貸してくれるなら、私(義守)が再び最上の当主となる」といったものでした。
この手紙においては義時の名について全く触れられておりませんでした。
また奥羽永慶軍記や最上記、伊達輝宗日記にも「中野義時」の名は出てきておりません。
(ただし伊達輝宗日記には<中野>といった表記が出てきますが、仙台博物館の学芸員の方のお話しでは、この中野は義守を指すとの解釈らしいです)
長瀞は地理的に山形の北、西を西根、東を東根と勢力的に天童氏の範疇に含まれます。
天童市史には中野義時=長瀞義保説を謳っておりますが、この時期に長瀞に義光の弟の長瀞義保が滞在したといった史料も今のところ見つかっていないのが事実です。
また性山公治(フォント無し)家記録には「白鳥長久が義守と義光の間を取り持った際の」前後の記述に
閏十一月十九日庚申、最上殿義光ヨリ書状を以ッテ天童和泉守頼貞ト和睦セラルノ由仰□セラル、東根、西根ノ輩義光ヘ和睦ノ義(ママ)公(輝宗を指す)ヨリ御計ラヒ有シト見ヘタリ
の文章が見えます。
よって
(番外 最上宗家の復帰を目指す義守が反義光旗印となる義時の天童氏への従属化は採り得ない)
1最上義光が長瀞を手にしたのは天童氏を打ち破った後。
2その頃には弟、最上義時は自決。
3最上義光は長瀞に郡代を派遣。
4義光は長瀞を弟に委託統治させた。
(5斯波氏家系図には新左衛門尉=長瀞義保として記載)
(6新左衛門尉=義時を立証する史料は未発見?)
以上の事から私は義時と義保は別人説を選ばせて頂く次第です。
(惜しむらくは最上家の取り潰しにより土佐長宗我部家の様に人的そして史料的散逸があった事です。) |
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