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投稿者名: 高知県民
投稿日時: 2017年11月29 (水) 17時01分48秒▽

信長の野望シリーズに殆どor全く登場していない、土佐七雄関係の武将を紹介します。

一条内政(1560〜1580)
兼定の子。兼定の追放後に土佐一条家を継ぐが、実権は元親に奪われ、中村からも離された。後に長宗我部家臣・波川玄蕃の謀叛に加担したとして追放された。

一条政親(1578〜????)
内政の子。内政追放後、土佐一条家を継いだ。関ヶ原合戦で長宗我部家が改易された後、京あるいは大和に退去したと言われるが、その後の消息は不明である。

大平国興(1502〜1546)
土佐の豪族。元国の子。勢力を拡大する土佐一条家と長宗我部家の合間で生き残りに腐心するが、津野家の救援に向かった戦いで討死した。

大平国文(15??〜1566)
土佐の豪族。国興の子。一条兼定と本山茂辰の挟撃を受けて、戸波村積善寺にて自害した。これにより土佐大平氏は滅亡した。

吉良宣経(????〜????)
土佐の豪族。土佐吉良城主。一条家から伊予守に任ぜられ土佐吉良家の最盛期を迎えた。また、周防から儒学者・南村梅軒を招き、土佐南学の基礎を築いた。

吉良宣直(????〜1540)
宣経の嫡男。当主となった後も治政を怠っていたという。一条家と結ぶことを決意するが、これに反発した本山茂辰の奇襲を受け討死した。

津野基高(1503〜1553)
土佐の豪族。姫野々城主。一条家と各地で戦うが敗れ、降伏して所領を安堵された。津野家は平安中期に土佐へ入国し津野山を開いた藤原経高を始祖とする。

津野定勝(1521〜1616)
土佐の豪族。姫野々城主。基高の子。土佐一条家が伊予宇都宮家に援軍を派遣した際、従軍するが鳥坂峠合戦で敗れる。のちに家臣たちによって追放された。

津野勝興(1549〜1578)
定勝の子。定勝が家臣に追放されると跡を継ぐ。その後、長宗我部元親に降り元親の三男親忠を養子に迎えた。親忠は幼かったため、勝興が政治を見ていた。

安芸弘恒(1557〜1582)
安芸国虎の嫡男。八流の戦いで安芸家が滅亡した後は、阿波矢野氏を頼り落ち延びた。その後、中富川の戦いで長宗我部軍と戦い討死した。

安芸家友(1597〜1671)
安芸家の一族という。伊予の旅人から朱善寺紙の製法を習い七色紙を開発した。山内一豊の入国後、高知藩の用紙方・幡多郡代官を勤めた。

島親益(1545〜1571)
長宗我部国親の四男。元親の弟。本山攻めなどで活躍した。病気療養のため有馬温泉に向かう途中、阿波の豪族・海部友光に襲撃され討死した。

比江山親興(1544〜1588)
長宗我部国親の弟国康の子。四国征伐では阿波岩倉城を守備。家督相続問題の際、四男・盛親の擁立に反対したため、久武親直の讒言により切腹させられた。

長宗我部康豊(1599〜16??)
元親の六男。信九郎。大坂の陣で兄盛親に従って入場し、八尾の戦いで奮戦。敗戦後、逃亡し足立七左衛門と名乗り駿府に住む。のちに酒井忠利に仕えた。

長宗我部盛胤(1600〜1615)
長宗我部盛親の孫。長宗我部家改易後、肥後で大叔父・右近太夫に養育される。のち大坂城に入り、大坂の陣では徳川方を苦しめるも、落城後に斬首された。

香宗我部貞親(1591〜1660)
親泰の次男。関ヶ原合戦の後家臣に守られ土佐を脱出、堺に寓居した。成人後は寺沢広高に仕える。後に従姉・春日局の斡旋により堀田正盛の家臣となった。

長宗我部盛澄(1608〜1651)
長宗我部盛親の側室の子として生まれたと言われるが、定かではない。慶安の変で幕府転覆を図るも計画が露見したため失敗し、磔にされて処刑された。

theme.gifrep.gif[1115]土佐七雄関連の超マイナー武将 高知県民 〔2017.11.29 17:01〕

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