相撲

 民俗学の見地からすれば、相撲は農業生産の吉兆を占う 農耕儀礼=神事、ということになる。つまり稲作文化の発生 と同時にそれはできたと言う事で、鵜呑みにすれば弥生時代 以前からその祖型はあったということになる。

 文献的には『日本書紀』に載っている宮廷の建児相撲の 記事が最古だといわれている。これは百済からの使者を喜ば せるために行われたもので皇極元年のこととされている。

 更に遡って野見宿禰と当麻蹶速が力比べをしたのがその 最初であるとする説もあるが、そうであれば垂仁天皇の時代 になる。しかし、建御雷と建御名方が国譲のときにやって いるという方もいる。どちらにしても相当古い話であるが、 どのくらい今の相撲と近いか定かではない。

 しかし、ただの力比べならば象や牛でもやっていることで 力比べ=相撲というわけではない。

 そもそも「相撲」の二文字は『本行経』という経本が初出 で、当然の事ながら梵語で書かれていた。これを印度のお坊 さんが漢訳する際、「力比べ競技(ゴダバラ)」を表す漢語 が存在しなかったためにできた造語が<相撲>であった。 <相方撲り合う>という意味であろうか。

 それが日本に入ってきて大和言葉<すまふ(争うという ような意味)>にあてられた。どちらにしても、宗教的な 意味付けをしなければ行為自体は喧嘩力比べとは大差がなか ったということである。

 つまるところ相撲と力比べとを分かつ唯一の差異はその 文化的背景の一転に収斂する。

 個人の肉体の優位性を競うものでなく、縄張り争いをする ものでもなく、増してや相手を殺傷するために戦うのでも ない。その年の収穫の出来不出来を占うものであれ土地を 踏み鎮める呪術であれ、いずれ背景に別なものがあって、 契約上争いは始まり契約に基づいて勝敗が決する。

 だから相撲は、儀礼と深く結びついてきた。神社仏閣、 そして朝廷を抜きにして相撲の現在は語れない。

 神事相撲は神亀三年、聖武天皇が始めたものとされている が、これは古くから民間で行われていたものを朝廷が公式に 取り上げた、と考えた方がいい。

 これら神事相撲の名残は、秋祭の奉納相撲などで窺うこと が出来る。

 そして、奈良時代に入ると相撲は一種の神事を兼ねた余興 と化し、朝廷によって全国津々浦々から猛者どもが集められ 彼らは相撲人(すまいひと)と呼ばれた。相撲取り、おすもう さんのことである。

 平安時代にそれは一層盛んになり、相撲は相撲節会と呼ば れる宮中の一大イヴェントに発展した。四十人程の屈強の 相撲人と関係者一同が行列をなして紫宸殿に入城する様は まさに壮麗の一言に尽きたと伝えられる。

 ただ当時は土俵も行司もなく、転んだ方が、負けであった。

 相撲節会は高倉天皇の頃に絶えたというから、およそ三百年 は続いたということになる。理由は宮中で相撲が飽きられたと いう訳ではなく、朝廷がスポンサーとして耐え切れなくなった というのが正解らしい。源平の戦いを機に権力の中心は公家 から武家に移行していったのである。余興を続ける余裕が無く なったのだ。

 しかし宮中の節会は途絶えても、相撲は途絶えなかった。

 武士が権勢を握る世が到来すると、勇猛果敢な相撲は益々好 まれ武将は武術として相撲を嗜んだ。力比べが呪術に、そして 余興に転じ、さらに武術に転じた。公式の大会が催されること はなくなったが、力士は大名に召し抱えられて戦場に出陣し、 一方で半ば職業化していた相撲人集団は全国巡業を始める。 これが後の勧進相撲のルーツである。

 のみならず、民衆の間では盛んに草相撲が行われた。

 そして公式相撲作法が定められ、それを仕切る行司が登場 する、相撲史上画期的といわれる織田信長の、天覧相撲が元亀 元年より開始されたのだった。
新京極夏彦「四十七人の力士」より

森蘭丸 織田信長
禁じられた手
武田信玄 高坂昌信
見つめ合うふたり
酒井忠勝 伊達政宗
ごますり