戦国雑話-立花城の鉄砲盗人-

 天正六(1578)年10月、九州一の勢力を誇る豊後の 大友宗麟は、 薩摩の島津義久と耳川で戦って大敗して衰退していく。

 大友敗戦後、筑前では 秋月原田筑紫・ 宗像らが、一斉に離反して立花・宝満・岩屋・荒平などの大友諸城を攻撃し始めた。

 そのころ、立花城を守っていた宗麟の将・ 立花道雪(戸次鑑連)は 筑前大友方の中心となって宝満城主・ 高橋紹運らとともに斜陽の主家を支えて活躍する。

 一方、反大友方の勝尾城主・ 筑紫広門は 計略をもって立花道雪にいつわりの和議を申し入れるため家臣・島珍慶を立花城に遣わした。

 この時、多々良川渡し口を守る箱崎松原口番所の番頭城戸清種は珍慶から立花登城の申し入れを聞き 「ひとまず自分が話を承ってから道雪様に申し上げよう」と答えた。 珍慶は「主人広門の命で、お味方につくために参上したもので、城主と直々内談したいので、お取次ぎください」と 要請したので道雪にこれを報告した。

 道雪はこの突然の謁見を許し清種らに珍慶の案内を命じて登城させ 城内渡りの間で彼と対面した。味方の少ない時筑紫側のこの申し入れ は勇将立花道雪を喜ばせた。

 急ぎお膳が用意され銚子つきで珍慶に食事が馳走された。道雪は、 当日の引出物として床上に掛けてあった長盛作の名刀壱振を彼に与え た。また、筑紫広門への贈り物として大鉄砲10丁、火薬10瓶を 川上まで運ばせて珍慶を見送らせた。

 立花城から刀と鉄砲をせしめた珍慶は、そのまま部下をつれて博多 へ走り、市中にあった道雪管理の糸蔵(物資貯蔵庫)を、わざと使用 できないように封じてしまった。この変事は博多の年寄衆から松原 口番所に通報された。

 だまされたと知った道雪は、珍慶の跡を追わせたが、すでに珍慶は 味方の武蔵城に逃げ込んだあとだった。

 以後広門の軍と戦う時は「鉄砲盗人」と呼んだという。『豊前覚書』
筑紫広門 立花道雪
ヤツはとんでもないモノを盗んでいきました