雨森弥兵衛(1517-1573)
浅井家臣。久政の頃から浅井家に仕えていた重臣。
浅井家の旗頭として六角家との戦いなどに活躍したという。
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シンクロウ 2007/06/17/18:52:54 No.76 評価★★★★★ この人は、資料がないから実在してないとも言われているような気がします・・・
以前投稿させてもらった作成武将の子供たちも作ってみました。気になる武将(大名?)がいたら登場させてあげてください
松前氏広 津軽信政 秋田盛季 南部行信 最上義智 伊達宗純 伊達宗利 伊達綱宗 田村宗良 岩城重隆 佐竹義処 新庄直好 大田原高清 上杉綱勝 土屋数直 松平頼重 徳川光圀 徳川光友 徳川光貞 松平光通 松平昌親 松平綱隆 保科正経 本多政長 本多政利 榊原勝政 酒井忠清 酒井忠当 大久保忠職 大須賀忠次 小笠原長矩 板倉重郷 板倉重矩 水野成之 伊奈忠克 奥平忠昌 溝口宣直 今川直房 仙石政俊 太田資次 牧野成貞 林鳳岡 金森頼直 九鬼久隆 織田信勝 織田長頼 前田綱紀 前田正甫 前田直作 丹羽長次 池田光仲 池田光政 池田恒元 堀尾忠晴 山内忠豊 浅野綱晟 浅野長直 加藤光広 蜂須賀忠英 藤堂高久 藤堂高通 細川光尚 細川行孝 長岡直之 東本願寺琢如 西本願寺良如 分部嘉治 黒田光之 戸川安宣 鴻池正成 毛利綱広 吉川広嘉 立花鑑虎 立花種長 鍋島光茂 鍋島正茂 龍造寺季明 伊東祐実 伊東祐由 秋月種信 相良頼喬 島津綱久 禰寝清雄
実父設定が外れていますが、列伝を参考に設定してください。いつの日か新武将制限200人が外れることを夢見て作っていましたが、叶わぬ夢になりそうです
ちなみに一人だけ上に載ってない人物を、34年ほど早く生まれてもらって入れてます。シャレのつもりなのであしからず、です
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以前投稿させてもらった
近畿地方の二世武将です
蒲生忠郷 蒲生忠知 京極高広 京極忠高 後藤基則 黒田忠之 黒田長興 細川興元 細川興秋 細川忠利 細川忠隆 三好幸信 三木近綱 山崎家治 寺沢堅高 松井興長 松倉勝家 湘南宗化 新庄直定 池田重利 中川秀成 長岡寄之 長宗我部康豊 田中吉次 田中忠政 東本願寺宣如 藤堂高次 徳永昌重 本願寺准如 柳生宗冬 有馬忠頼 林鵞峰
以上です
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お市の方と長政の媒酌人。
津田算長
津田明算
津田算正
津田監物算長ほか三名を製作しました。
ほかはあまり資料が無かったので、とりあえず
三人だけ・・・。
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筒井順慶の後見役となった順政をはじめ、
ゆかりの深いものを作ってみました。
後に肥前島原城主となり島原の乱の原因を作った
松倉親子もいます。
筒井定慶
筒井順政
松倉重政
松倉勝家
井戸覚弘
中坊盛祐
中坊秀国
中坊秀祐
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真田 大助(さなだ だいすけ、1601年8月22日(慶長6年7月24日)? − 1615年6月4日(慶長20年5月8日))は、江戸時代前期の武将である。真田信繁(幸村)の嫡男、母は大谷吉継の娘(竹林院)。真田幸昌。
1601年(又は1602年)、父・幸村が関ヶ原の戦いで流されることとなった紀伊国九度山(和歌山県九度山町)で生まれる。祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名された。1615年(慶長5)、父・幸村とともに九度山を脱出して浪人を募集していた大坂城へ入り、大坂夏の陣に出陣して敵の武将を討ち取るという大功を挙げたが、父に大坂城の落城を見届けるように命じられる。このとき、大助は父とともに最後まで付き従うつもりだったが、父の命令には逆らえず、やむなく大坂城に引き返したとされる。そして大坂城落城後、幼年のために周囲から脱出を勧められたが拒絶し、主君の豊臣秀頼とともに死去、享年13、あるいは16。
墓所は和歌山県九度山町の善名称院ほか。また、父の信繁同様に各地に生存伝説が残る。
淳史 2006/01/26/16:22:42 No.55 評価★★★★★ この、真田大助はゲームに出てくるけど……
淳史 2006/01/26/16:24:21 No.56 評価★★★★★ この真田大助は、真田幸昌として出てくる。(革新)
籠手田 安昌(こてだ やすまさ、1508年(永正5年)−1557年(弘治3年))は、戦国時代の武将。
松浦氏の一門衆で、松浦興信の死後、松浦氏で家督争いが起きると松浦隆信を支持し、その擁立に尽力した。嫡男の籠手田安経と共にキリシタンとなった。晩年まで、松浦氏の筆頭重臣として隆信を助けている。
籠手田 安経(こてだ やすつね、1532年(天文元年)−1581年(天正9年))は、戦国時代の武将。松浦氏の一門衆であった籠手田安昌の子。
当主・松浦隆信に次ぐ有力者として、隆信を補佐した。松浦氏の本家との争い、波多氏との戦いでは当主に代わって総大将となって出陣するなどして活躍している。父と共に洗礼を受け、キリシタンにもなった。
籠手田 安一(こてだ やすかず、1553年(天文22年)−?)は、戦国時代の武将。松浦氏の一門衆として活躍した籠手田安経の子。
祖父の籠手田安昌や父と同じく、キリシタンとなった。豊臣秀吉の伴天連追放令により、主君の松浦鎮信が教会を破壊することを反対して対立した。このため、一族を連れて出奔したという。
楠木正虎(くすのきまさとら 永正17年(1520年) - 文禄5年1月11日(1596年2月9日))は、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将。
松永家、織田家、豊臣家の右筆(書記官)を担当し、楠木正成の子孫と称し、朝廷に楠木正成の朝敵の赦免を嘆願した。信長の取り成しにより1559年には正親町天皇の勅免を受けて、晴れて楠木氏を名乗る。1575年には式部卿法院に叙せられ、松井友閑らとともに佐久間信盛の監督官の立場に任じられる。正虎は、書を飯尾常房に学び、世尊寺流の当代一流の書家であった。
1592年の朝鮮征伐に際しては、肥前国名護屋城において、石田三成の父である石田正継とともに記帳などにあたった。後に従四位上河内守に任じられた。
?〜?
実名は不明。(とある小説では「武庸」となっていた)
出家後・権入。
大野治長の家老。六百石。
治長の腹心として、徳川との交渉に幾度も臨む。
もともとは農民で、治長に草履取りから抜擢されたという。
大坂冬の陣では、自ら城外を偵察。堺で生鯛を二匹買って帰ってきた。
大坂夏の陣では、千姫や治長を娘を連れて脱出。徳川と最後の交渉に臨んだ。
役後、一命は助けられて、江戸東禅寺で寺男をしていた。そこを浅野長治に取り立てられる。
八十過ぎまで物頭として現役であったが、千姫の名誉を守るために辞職。
また、治長の娘を大名家に嫁がせたという。(←どこかは不明)
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